タナトスの時代

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6 三月に入るとA政権が突然、新型コロナウィルス対策のため小中高の学校を春休み明けまで休校にすると発表した。これは文科相にも相談せずAの独断で発表したもので強制力はなかった。しかし、忖度と同調圧力の強い社会の中で、僅かの例外を除いて全国の学校が従った。 また政府は緊急事態宣言を感染者数の多い自治体から順次出していたが、四月一六日には全国的に出さざるを得ない事態となった。マスク、手洗い徹底等の感染対策に加え、不要不急の外出も自粛が推奨された。 満男から聡志に電話がかかってきた。 「鈴音さんのご要望の会合は、高齢者はなるべく外出しないほうがいいと思うので、延期したいけど、いいかな。鈴音さんも同じ考えだ」 「そうだね。僕ら高齢者は感染すると重症化する恐れが大きいから、コロナが落ち着くまで自重しよう」  鈴音は会合がコロナが落ち着くまで延期になったので、その間に自分が最も知りたいと思っている特攻隊員に関する本を読んでみようと思った。 ウェブの検索機能を使って特攻関連の書籍を探してみた。その中の一冊に「オークションまで範囲を広げて収集した特攻隊員の遺書、当時の国民の手記、マスコミ報道などの資料を駆使して論じた」という書き込みが目をひいた。「特攻隊員の現実」というタイトルの本で、早速ネット通販で注文した。 鈴音は買い物以外は、「コロナ籠り」で時間はたっぷりとることができた。配送されてきた書籍を手にとって読み始めた。まず鈴音の最も関心の深い特攻隊員の当時の気持ちの持ち方を知りたかった。 最初に、鈴音の目をひいたのは、二通の異なる遺書が発見されている陸軍初の特攻隊員、万朶隊員の石渡俊行軍曹である。石渡は一九四四年一一月に出撃戦死、同時に陸軍少尉に進級している。万朶隊員の場合は、志願ではなく指名であった。幹部たちの意見は「志願者を募れば全員が志願するであろう。指名されればそれでよい」というもので、要員は必ずしも高い練度は必要なく、いわゆる係累の少ない青年を選ぶという考え方が基本であった。 石渡は、私物入れの中に両親あての遺書を残していた。 「私明朝を期し〇〇方面出撃に向かいます。大君の御為に豊芦原の御国に一死以て報ゆるの所と時を得ました事は誠に嬉しく思います。胸中何物も有る無し唯かすかにひびくは太古此の方伝わる大和魂の力強い脈動のみであります。(略) では元気で征きます。父母上様 呉々も不要の御心労無く長寿全うせられん事を祈ります では 出陣の前夜 御両親様  遺髪はタンスの引出中に有ります」 鈴音は、一読して、これは本心ではないのではないかという疑念をもった。著者の一ノ瀬俊也は 「特攻開始時の陸軍が、戦地へ向かう特攻隊員に思いの丈を記した遺書を書かせ、それを遺族に渡そうとしなかったことである」と書いている。 さらに「一死を以て報ゆることに死にがいを見出していた。明治以来の忠君愛国教育の結果があり、空虚なイデオロギーに過ぎぬと切り捨てることはできない。それはかっての日本人が命を賭ける、せめてものよすがとした考えかたであるからだ」と書いている。 石渡には遺書以外にも特攻出発直前と思われる父親に送った葉書が発見されている。 「前略 不意に出て参りましたのでさぞかし御驚きの事と思います。今は吾等が宿舎に当てられましたホテルの豪華なホールで此の手紙を書いて居ります。(略) 私一度召されて来ましたからは必ず必ず不覚は取りません。其の事につきましては呉々も御心配無きようお願い致します。内地ではさぞかし御寒い事でしょう。呉々も御身大切に  比島派遣真部隊万朶部隊  石渡俊行 著者はこのハガキについて次のように書いている。 「彼は戦場で「不覚」をとって捕虜になるなどした将兵の家族が、いかに周囲から卑怯者として白眼視されるかを知っているのだ」 鈴音は、やはり戦陣訓の影響が、現れているのではないかと思った。はたちそこそこの若者がこのような追い詰められた心境になり自分の親へ便りを書いていた心情を思いやった。  鈴音は、また高等教育を受けた特攻隊員の率直な遺書や日記が紹介されていることに胸を打たれた。 一つは、特攻に行く前に書いた遺書で東大卒、二三歳の安達卓也が書いたもので高等教育を受けた者の悲哀がにじみでている。 「凡太郎は学生生活において知性に目覚めて以来、歴史について、死について苦悶と思考をつづけてきた。それは未解決のまま残されている。もう苦悶も悩みも存在する余地がない。それは意味なき意味であり、未解決の解決である」 もう一つは残された日記に書きつけられた次のようなものである。京大出の二三歳の林市造海軍少尉は次のように書いている。 「私は二、三月を出ずして死ぬ。私は死、これが壮烈なる戦死を喜んで征く。だが同時に私の後に続く者の存在を疑ごうて嘆かざるを得ない。世にもてはやされる軍人も政治家も、何と薄っぺらな思慮なきものの多きことか。誠の道に適えば道が分かるはず。まさに暗愚なる者共が後に残りゆくを思えば断腸の思いがする」 著者は次のように補足している。 「愚かな指導者たちが生き残るのに、なぜ自分は死なねばならないのか。その無念を「喜んで征く」 という言葉で受け入れようとしながらも、できないところに激しい苦しみがある。上官たちは自分も後に続くというが、とうてい信じることはできない」 鈴音はこれを読んで考える。これは学問をして知性を得ると悩みが深くなった事例だろう。大半の特攻隊員はそんな苦悩を避けて、考えないようにして国の為、家族や親族が非国民扱いされないため等で自分を納得させたのではないか。 その大半の特攻隊員のひな型のような遺書もある。著者は、以後敗戦まで大量に書かれる特攻隊員 の遺書の定番というべき言葉が並んでいると解説している。 「大任を拝し不肖皇国に生を享け今此の死所を得たるを最大の喜びとす 五十年の人生を礎くに孜孜汲々とせずして今や悠久の大義に生き得るを最大の喜びとす 廣は有史以来の幸福ものでした 只皇恩祖先父母衆生の恩に感ずるのみ 絶対の死に向う明鏡止水の心境 只愉快あるのみ ご両親様にも健やかに特に悲観されずむしろ喜んでください では   月日   石川中尉  」   鈴音は、ここまで読んで特攻隊員たちの死にたくないという本能とそれを抑え込んで死地に向かわねばならない運命との間で揺れ動く気持ちを痛いほど感じることができた。 大脳の機能分担からみると、大脳辺縁系の古い脳が有する本能と価値判断や情報処理を担う扁桃体等の機能が脳内で混乱している状態であり精神異常が生じても不思議ではないとも考えた。 鈴音はここまでは主として特攻隊員の命令を受けてから出撃し体当たりするまでの行動から隊員の感情面を知ろうとして読みすすめてきた。これに加えて特攻全般について、特攻はなぜ始められたのか、志願か命令か、上官たちの責任論、天皇の姿勢、一般国民は特攻をどう見ていたのか等の点について読み進めメモを書いて見た。 〇特攻はなぜ始められたのか 太平洋戦争は空母から発着する飛行機による戦いが主なものであった。質量ともに劣る日本軍の飛行機が米軍の空母や船団に致命傷を負わせられなくなったのが根本的な理由である。飛行機から投下する爆弾が敵艦にかわされる。ならば人間が操縦する爆弾を積んだ飛行機が体当たりすれぱいくばくか命中率が上がると考えられた。米軍に対して日本軍には新兵器がなく、特攻は新兵器の代用とも考えられた。原爆投下はアメリカの科学的新兵器であり新兵器としてきた特攻を否定するものであった。 次に戦争終結のための一撃講和論である。アメリカ軍に一撃を加え、講和を持ち出すという考え方である。 さらに国民の士気高揚を図り、飛行機増産等を促進する意味も与えられていた。 〇特攻隊員は志願制か強制命令か。軍の中央部と現場の指揮官のどちらが主導したのか。 特攻隊員の選定は志願を建前としていたが、現場、時期等により実態は様々であった。志願しなければ卑怯者扱い等の同調圧力により内心とは異なる意思表示が多かったのではないかと推量される。 主導に関して海軍については大西瀧次郎の強いイニシアティブで実行され中央はそれを消極的に追認したとする説と中央からの示唆があったとする説がある。 なお、敵艦に体当たりした特攻隊員は、護国の神と崇められ特攻隊神社まで建立されていた。 〇天皇の姿勢 昭和天皇は梅津参謀総長によるフィリピンの戦況の上奏を受け「特別攻撃隊はあんなに弾を沢山受けながら低空で非常に戦果をあげたのは結構であった」と褒めている。かくして天皇のお墨付きを受けた形で特攻は拡大されていった。 〇一般国民の反応 日本独自の「新兵器」特攻に対する一般国民の反応はさまざまであり、肯定と否定の双方があった。多くの国民は早い段階でその効果に見切りをつけ関心を失っていったようだ。それでも特攻を続けていけばいつか米国が参るのではないかとわずかな希望も持っていた。 鈴音は、このようなメモを作り、満男と聡志へのメールに添付して送信した。 二人から受け取ったという返信があり、簡単な感想も書かれていた。
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