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鈴音は、沖縄の古宇利島を訪ねる旅を計画した。自分の叔父の乗っていた特攻機が沖合一・五キロ先の海の底に沈んでいることを知り、その海で船から花束を投げ、手を合わせたかったのだ。そのため従兄の満男とその友人の聡志を誘った。二〇二×年、新型コロナによる世界的パンデミックは終息を告げつつあるようであった。それでもまだマスクを着用し手洗い等の対策は続けられていた。
昨日は空路那覇空港に飛来し琉球バスで名護市にやってきた。鈴音は満男と聡志と名護のホテルのレストランで夕食を共にした後、ロビーのゆったりしたソファに座ってコーヒーを味わっていた。三人でそれぞれが調べてきたことを説明し感想を語りあった。
「鈴音さん、特攻隊員の遺書や手記をメモした資料を有難う」
満男が話しかけ、聡志も鈴音に礼を述べた。
「それにしても、はたちそこそこの若者たちを次々に死出の旅に送りだす狂気はどこから湧いてきたのだろう」
聡志が言うと、満男は話してみたかったことを話し出した。
「僕は戸部良一ら六人が書いた「失敗の本質」という本を読んでみた。これは、ミッドウェイ作戦やインパール作戦など主な作戦の失敗を分析する内容なんだ。幅広く様々な観点から分析しているが終わりの部分で「日本の政治組織は日本軍の戦略性の欠如をそのまま継承しているようだ」と書いている。つまり、あの無謀な戦争を起こす体質が温存されているということなんだ。昨今の問題点を分析すれば当時の失敗の理由も帰納的にある程度推測できるかも知れない」
「僕もそんな気がしているんだ。世界的パンデミックのコロナ対応を見ていると、PCR検査と陽性者の隔離という国際標準を無視してマスク・手洗いと三密を避けろだけ言っている。また感染者が急増して病院が満杯になると自宅療養という自宅放置をして、中国、韓国、ベトナムのような野戦病院的なものの設置を考えていない。つまり政治が全く機能していない」
聡志が指摘すると、満男も同調して言った。
「特にコロナ禍での五輪開催の強硬実施は、独裁的だと思った。コロナ感染症対策分科会会長のOさんが開催を危ぶんで警告を発し、S内閣の閣僚の一部も反対したけれど、S首相は押し切ってしまった」
「そしてコロナの蔓延を拡大させてしまった。にもかかわらず、五輪開催にコロナ蔓延のエビデンスはない、と否定している。O会長は五輪により国民の意識が変わり、行動が活発になることが蔓延を招くと警告していた。S首相は、自分の意見に従わない官僚は左遷し人からの忠告を受け付けない独裁者のようだ。曲がりなりにも民主主義を奉じる国の権力者になぜSや、国会で何回も嘘をついたAが選ばれるのか不思議としか言いようがない」
「この調子だと、戦争だって独裁的に始めてしまうかも知れない怖れを感じるよ」
「そうだよね。シビリアン・コントロールという言葉があって、暴力装置である武力は文民たる政治家が統制することで軍隊の暴走を防ぐという意味があるけれど、市民から選ばれる権力者の暴走を止める制度が未熟だと思うね」
「戦争は同盟国のアメリカからの依頼または命令で始まるかも知れないな。日本の政治家はそれを断れないかも知れない」
それまで聞き役だった鈴音が言った。
「お二人はかなり悲観的な見方をしておられるのね。怖いわ。特攻で若くして亡くなった伯父も浮かばれないわ」
満男と聡志は、はっとして言い過ぎたかなと口をつぐんだ。鈴音は続けて言った。
「でも私もテレビのニュースなんか見ていると、お二人のご指摘もあながち言い過ぎではないかも知れないと感じるの」
満男は、とりなしてくれた鈴音に言った。
「鈴音さんの特攻で亡くなった伯父さんの死は我々に沢山の教訓を残してくれていると思うんだ。終戦記念日で首相の式辞には「今の平和と繁栄は、戦没者の貴い命と苦難の歴史の上に築かれた」というような決まり文句があるだろう。あれは今の権力者が言うと戦争を起こした当時の権力者の罪を許すことになりかねないと思うんだ。けれど、我々民衆の側で考えると別の意味を持つ」
満男は考えながら続けた。
「アメリカは日本に天皇制維持の条件として第九条の戦争放棄の条項を入れた憲法を押し付けたと言われている。戦争放棄を後押ししたものとして私の妄想だが特攻等への恐怖心があったと思う。天皇に心酔するカルト集団が命をものともせず、向かってくる恐ろしさを沈没した艦に乗っていた米海軍の水兵が語っている場面を見たことがある。そんな背景もあり、私は平和憲法が獲得できたので日本が戦争の負けて本当によかったと思っている。もっとも、アメリカは朝鮮戦争が始まると日本に軍隊を復活するよう要求したがね。吉田茂はそれを彼らが押し付けた憲法で抵抗したんだ」
鈴音はそれを聞いて少し納得したように頷いた。聡志は考えながら疑問を呈した。
「確かに戦争で犠牲になった兵士の遺族にとって救いがある考え方だね。だけど、これは権力者には都合のいい見方になるので、利用されると危ないような気がするよ」
鈴音は、これを聞いて少し落胆した。それを察して聡志が続けた。
「特攻で伯父さんを亡くした鈴音さんにはきつい言い方になるけれど、どうだろう?」
「私には何とも言えないわ。だってあの戦争は平和憲法のためやった訳じゃなくその反対だったのですもの」
鈴音は論理的に考えながら言った。満男も自分は鈴音に気休めを言ったことを後悔した。そして別の切り口から話し始めた。
「NHKの「100分で名著」でル・ボン著「群衆心理」を扱っていた。これはヒトラーが読んで民衆掌握のため演説に利用したそうだ。イメージによってのみ物事を考える群衆は、力強い「標語」や「スローガン」によって「暗示」を受け、それが群衆の中で「感染」し、その結果、群集は「衝動」の奴隷になる。これが群集心理のメカニズムだというんだ」
聡志が即座に反応した。
「そのメカニズムはよく理解できるなぁ。K首相は「自民党をぶっ潰す」とか「抵抗勢力」等というスローガンでワンフレーズ・ポリテクスと言われて国民の支持を得ていたからなぁ。ネトウヨと呼ばれる連中もネットの中で反対勢力に対して強くて単純な言葉を繰り返し主張するようだ」
満男は一つの事例を思いついた。
「Sによって学術会議メンバーから外されている加藤陽子の「それでも日本人は戦争を選んだ」には当時の日本人が心ならずも戦争に突入した経緯が説明されている。軍隊が制御不能の度を増していき、政党政治が巧く働かなくなった。また戦勝と植民地獲得をメディアが煽り立てたので国民が興奮して戦争への歯止めを失ったことが冷静な分析で書かれている。
国民一人一人は戦争の犠牲にはなりたくなくても、社会全体の雰囲気に呑まれるとその流れに逆らうことは難しい。このような流れが「満蒙は日本の生命線」等のスローガンが作り出したんだ。結果的に国民を含めた日本人が戦争を選んだことにされてしまうんだ」
満男は続けた。
「日本が戦争を阻止するには、月並みだけど、選挙でいい候補者を選ぶ、半数近い棄権者に投票を呼び掛ける、折角獲得した憲法に裏打ちされた戦争反対の意思を示し続ける、等がもっと必要ではないかと思うよ」
聡志も賛同して言った。
「やはり基本に立ち返ることだよね。何よりも権力者のスローガンを疑ってかかることと権力者に忖度するメディアの報道は疑ってみることだと思う」
続けて聡志はアインシュタインとフロイトが往復書簡で戦争廃止について論じた要点の説明を始めた。
ユダヤ人の二人は一九三二年、ナチス・ドイツから他国へ亡命した。アインシュタインの問いかけにフロイトは次のような意見を書簡に認めていた。
人間の心には「生への欲動」であるエロスと「死への欲動」であるタナトスが混ざりあっている。「死の欲動」が外に向かうと「破壊欲動」となる。人間の攻撃性を戦争という形で発揮させないようにしむけなければならない。そのためにはエロスを呼び覚ませばよい。エロスを呼び覚ますには文化を発展させることが肝要である。一つは知性を強めること、二つ目に攻撃本能を内に向けることである。文化の持続発展には言論・表現の自由が不可欠である。
アインシュタインは平和への努力に水差すものは権力欲とそれを後押しする勢力だと指摘した。
聡志はこのことを日本に当てはめて指摘する。
「フロイトは言論・表現の自由の重要性を指摘したが、A政権以来メディアへの圧力が可視化されており、メディア自身も政権へ忖度が目立つようになった。これを止めさせなければならない。また歴史修正主義のような風潮も改めさせなければ。新聞で見たけれど、教科書検定で「従軍慰安婦」は単に「慰安婦」、「強制連行」は「徴用」という言葉になったそうだ。これは政府による検閲ではないか。最高裁判決でも「強制」と認定されている。それはそのほんの一例に過ぎないがね。
歴史修正主義者たちは、歴史の真実を自虐史観として排斥しているので我々の孫たちは歴史の真実を枠曲して学ばざるを得なくなっているんだ。まず手始めに我々自身が歴史を学ぶことで過去の失敗を認識することから始めたいものだね。S政権からK政権に代わったけれど、期待できそうもないね。彼もA政権の欠点を引き継いでいるんで」
「お二人のお話はかなり難しいけれど、私も何となくわかったような気がしてきたわ。フロイトの説によると、戦争を抑止するためには文化を発展させなければならないということなのね。そのためには言論・表現の自由が保証されなければならない。政治家のスローガンは疑ってみなくてはならない。日本の政治組織は日本軍の戦略性の欠如をそのまま継承しているという御話しもショックだったわ」
鈴音が感想を言うと、聡志が引きとって言った。
「東京五輪の組織委員会はその事例として興味深いものだった。ここは官庁やスポンサー企業からの出向者で組織されていた。五輪は準備段階から不祥事の連続だった。特に会議で女性の発言は長すぎると言って辞任に追い込まれた神の国発言をした森会長、過去の発言を暴かれて解任された何人かのクリエーター、そして弁当の大量廃棄の内部告発、これらは日本軍の弱点を可視化したようだった。
特に日本軍から現在に続くロジステクスの弱点も可視化されていた。これはワクチン接種や入院管理の失敗も同じであった。ロジステスクは効率的総合管理という意味もある。組織委は寄り合い世帯だったから保身に走る必要が少なかったので、内部の問題点を告発しやすかったのかも知れない」
「そうかも知れないな。そして五輪は三兆円を上回るコストがかかったようなんだが、その内訳を公表してくれるのかな。なにしろわたしたちの税金だからな」
満男も当時を思い出して苦々しく言った。
かなり夜も更けてきた。三人は鈴音の伯父さんの死の意味や歴史に学ぶことの必要性を反芻して考えながら、それぞれの部屋に引き揚げた。
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