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美音から届くプラタナスの絵の写真が立派な新緑になった頃、夏休みも近付いていた。
「出雲先輩…俺、追試です」
部活中に泣きそうな顔で榎本将大が言ってくる。
「どの教科だ?」
「英語と数学です、このままだと夏休みが無くなる〜!」
追試でも赤点があったら、夏休みは間違いなく補習だな。
「将大は園芸とかの専門科目はいい成績なんですが五教科がダメなんです、特に英語と数学」
美空夏季が呆れ顔で言う。
「ちょっと将大、追試でなんとかしてよね。将大が補習で抜けたら、せっかくみんなで作った夏休みの当番シフトが変っちゃうでしょ!」
「わ、わかってらい!俺だって補習は嫌だ!」
部室で一年生4人がわいわいやってる。新学期の入部時には6人いた新入部員だったが、交代での水撒きやなんやらが思ったより大変だと早々に二人が脱落だ。
それでも残ったこの4人は結構仲が良いように思う。将大と夏季はいつも言いたい事を言い合って楽しそうだ。
「とにかく勉強!部活の方は私達がやるから、ここで勉強しなさい!分からないことは教えるから」
「うん…」
将大は夏季の尻に敷かれてるな。夏季たちが出ていったあと、LED温室の片隅にある部室で将大が教科書を引っ張り出した。
「出雲先輩、分からない時は聞きに行っていいですか?」
「そりゃ良いが夏季は?」
「これ以上夏季にバカだと思われたくないです」
なるほど、男のプライドか。
「分かった頑張れ」
将大を残して部室を出る。水耕栽培の所では北がもうひとりの後輩男子に収穫したあとのレタスを家庭科部に届ける準備を教えていた。
「北、風見は今日も休みか?」
朝の当番はちゃんとやってるけど、最近は放課後の部活には全然来てないな。
「ああ、多分家庭科部に行ってる」
「家庭科部?」
確か文化祭の頃から付き合ってる女子がそこの所属だったよな。
「あいつ調理師の学校に行きたいとか言ってたべ?付き合ってる子の影響かと思ってたけどどうやら本気みたいだ。緒形先輩に許可をもらって時々家庭科部で調理実習をさせてもらうんだって」
「そうだったのか」
それでも園芸部を辞めるとか言わない辺りが風見だ、こっちの部活も好きだとは言っていた。
「今行ったら会うんじゃないかな、様子を見てくる」
「ああ、頼む」
風見だからどっちも真面目にやろうとするだろうし、心配は無いか。
風見もちゃんと目標に向かって進んでいるんだ。
北も醸造所の仕事が楽しいと言っていて、最近では雑用だけではなく仕込みの手伝いとか色々やらせてもらえるようになった。あの様子じゃ隆成おじさんの思惑通り、本当に醸造所に就職してしまうかもしれないな。
◇◇◇◇◇◇
そして福島の二度目の夏がやってきた。
まだ、受験に余裕のある俺はバイトの夏だ。去年は大阪の藤原さんの所でバイトをさせてもらった事を思い出す。
今年は土日とお盆の前後はファムおじさんの喫茶店。余計に稼ぎ時だ。
喫茶店の仕事も嫌いじゃない。
接客はそんなに得意じゃないけど、頑張ってウェイターをする。その頃にはおじさんも大分回復して、俺が居る土日に食数限定でランチも復活していた。
「お孫さんが手伝ってくれるなんて良いわねマスター」
そう言われるとファムおじさんも莉緒菜おばさんもちょっと嬉しそうだ。
暇な時にファムおじさんのベトナムコーヒーやサイフォン式、ネルドリップ式の淹れ方も教えてもらった。新しい事を覚えられるのは楽しい。
もちろんお客に出せる物では無いが、古い道具をおじさんに譲ってもらって、自分の家で父ちゃんやじいちゃんにブレンドを淹れると二人が喜んでくれる。
ばあちゃんと母ちゃん、妹達にはコーヒー薄めの練乳入りベトナムコーヒー風にしてやって。これも美味しいと受けは良い。
ひかりはもうちょっと大きくなってからな。
こうして、俺も色々なことを覚えて少しずつ何かが変わっているのかな。
それでも部屋に帰って何もない美音の机の上を見ると、ふと寂しくなる時がある。
そんな事、誰にも言えないけどさ。
プラタナス 新緑
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