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【小昼】
殺気立った工場の中に、全員が今最も聞きたくない音が響き渡る。
ステンレスボウルの底が床に回る、地獄の太鼓のようなぐわんぐわんという音────
「──────っ笹木コラァァ!!!」
──そこへ今度は、先程までの「最も」を二乗しても足りないほどに聞きたくないがなり声──。
「すいませんっ!!!!!!」
「さっさと次の生立てて藤原んとこ持ってけ!相田!ボウズ空いてんのか!」
「はいっあとっ──五分で空きます!!」
「笹木それ空くまでに生立ててそこ片付けろ!空いたら即行三本立てろ!!今日配合違うの分かってんな!!?」
「はっ──、はいっ!!」
「藤原ナッペ終わったらショックかけて昼行け!」
「えっ──、でも長谷川さんは──」
「俺ぁさっさと片付けて帰りてぇんだよ!いいか巻くぞ!!!」
「はいっ!!!!」
チーフの長谷川を頂点に、まるで軍隊だ──。
突如入った大口の注文と通常業務、それらを倍速で同時進行する長谷川の扱きに恐々としつつ、それでも面々は目の前の仕事をこなし、一心に長谷川の言葉を聞いた。
とにかく指示に従っていれば間違いない。
その安心感が、滑らかに回転する歯車のように規則正しく、そして真摯に作業に向かわせていた。
「戻りました!絞り入ります」
「藤原、待て」
「はい、っ?」
「………………お前釜やれ」
「えっ、」
「相田!藤原と釜交換だ、お前絞りやってくれ!」
「えっ?あっはいっ、」
──自分は何かしでかしたのだろうか。
藤原が緊張したように長谷川の横顔を見つめるが、それは別段怒っているわけでもなく──臨戦状態なのでこの上なくぴりついてはいるが──それが余計に不可解だった。
固まってしまう藤原が長谷川にどやされる一瞬前に、相田が引き継ぎの声を張り上げる。
「ここから順に即型押し、冷蔵室に手付かずのトレーが20枚、次の釜が出たらここから順次外しだ、よろしく」
「はいっ──、」
とにかく釜が優先だ。
言われたことを二度も三度も頭の中で復唱しながら作業台に付く。
「笹木、カスター炊き終わったら昼行け!戻ったら即洗い場!」
「はいっ!」
「火ぃ弱い!ビビんな!!」
「はいっ──!!!」
「全員水分ちゃんと摂れよ!特に釜!!」
「はいっ!!!」
──その後六時間。
誰一人として手の休まる時間はなく、結局長谷川は早朝から立ち通しで何も口にせず。
勝鬨のような「解散!」という長谷川の最後の指示で、予定よりも二時間早く全員帰路についた。
その帰路が、長谷川と藤原は、重なる。
乗客も疎らな電車の中、シートに座った途端に長谷川は目を閉じそうになっていた。
「長谷川さん、今日──あ、すみません……寝てください」
「なに……」
「いや、あの……なんで俺、絞り……」
「あぁ……」
相田と比べるとまだ若輩者の藤原が、あんな半端なタイミングで釜に回されるというのは不思議な采配だった。
あまり目の必要がない菓子ではあったが、それでも普通は熟練した人間が釜を見る。
洗い物でもしていろと格下げされるならまだ分かるのだが──
落ち込んでいいのか喜んでいいのかも分からず考えあぐねている藤原の手を、長谷川が掴んだ。
「!」
「……やっぱりな。朝から熱あっただろ」
「えっ、」
「朝の分絞ってるときから思ってた……お前が立ててあんなに生バサ付くわけねえんだよ……」
「────」
「つっても絞り綺麗なのはお前だから悩んだけど……質が落ちちゃな……」
「す、すみません」
「──帰らせてやれなくて悪かったな」
「そんな!」
「……少し寝る」
「はいっ、」
「重ね重ね悪いけど」
「はいっ?」
「帰ったら抱かせて…………」
「──────」
──正面の暗い窓に、疲れたような長谷川の寝顔と自分の間抜けづらが映る。
あまりにも忙しい日に、よくこの人はこうなった。
本当に戦線に立ってでもいるように神経を尖らせ、巡らせて工場全ての動きを見ている。
その張り詰めきったある種の興奮がそうさせるのかもしれない。
「………はい」
恐らく何も聞こえていないであろう長谷川に囁くと、不思議に少し微笑んだ気がした。
「ん……!」
「っはは、やっぱくせぇな俺たち」
「そう、ですか?お風呂入りましょう……」
「そうじゃなくて、バターの匂いがすげえ……工場だと分かんないけど」
「……やっぱり長谷川さん、鼻いいですよね」
作業効率もさることながら、この味覚と嗅覚の鋭さが長谷川の強みだ。
焦がれるように藤原に見上げられて長谷川は苦笑する。
「……名前。」
「あ、」
「家でまで仕事のことなんか考えたくねーーー」
「すみません──っ!」
性急に抱き竦められ、後ろを向かされて、藤原の首すじには長谷川の顔が埋まり腹には広い手の平が入り込んでくる。
もう、耳が熱くなるほど呼吸が荒れていた。
「辛くないか、体」
「っ大丈夫、ですっ」
「一発やったらすぐ寝ろ…………」
「…………………」
ベッドの上に押し倒されたまま藤原が黙ると、瞳に篭った熱を長谷川が少し引かせる。
「ゆっくりしたい?」
「──す、すこし……」
「ふはっ」
苺よろしく赤くなる藤原をよそに、長谷川は楽しげに笑っていた。
「おねだりまでできるようになっちゃってまあ」
「うう……すみません……」
「いいよ………」
険の取れた口元の微笑みがどうしようもなく愛しい。
職場での身震いするような恐ろしさが嘘のようだ。
その顔が降りてきて唇が合わさると、微かに甘い香りがする。
「──あ、ほんとだ長谷川さんもバニラの匂いします………髪かな」
「なーまーえ!」
「あっ」
「ったくいつまで経っても仕事忘れらんねぇ」
「すみません──っあ!」
「今日はちょっと意地悪する。怒った」
「えっえぇ、あっ!や……そん、ないきなり、」
「嫌か?」
他のところには全く触れずただそこだけに差し込まれる指に、藤原が仰け反る。
もっと触れられたい肌が切なかった、しかし──
「嫌……じゃ……、」
「最初っからこれ入れられても大丈夫なのな?」
「ん、っんぅ……」
「ユキ」
「はい、っ大丈夫です……」
「大丈夫、じゃなくて?」
ついさっき横になったばかりなのに、こんなにもいやらしい音がする。
焦らすように動く手の向こうにはやはりもう昂りきった長谷川のものが立ち上がっていて。
「──寿人さんのがほしい、です」
こんな意地悪を働くくせに、長谷川は甘くほろけてしまいそうに穏やかに笑う。
本当に、この人が作るお菓子みたいだ──
派手ではないけど洗練されていて、素朴で優しい味がする。
「ん、ぁ………っ寿人さん!……!」
「ユキ、ちからぬけ……… ──やっぱ中熱いな」
「んゃ!そんなこと、」
「違うって、熱!」
可笑しそうに笑う長谷川の笑顔を見つめながら、藤原も対仕事用に凝り固まっていた神経が解れるのを感じていた。
あんなにも恐ろしい、鬼軍曹のような男の腕の中で。
不思議ではあるが、少々強行軍気味に打ち込まれる熱を感じながら長谷川と思いの通じた日を思い返していた。
こんなどんくさい、仕事で迷惑を掛け通しの自分と私生活まで一緒にいて嫌にならないか──と言ったことを。
そして、家でまでお前の仕事のことを考えてやる気なんぞ無いと撥ね付けられたことを。
あれは、凄い落とされ方だった────
「ふふっ、…………」
「……なーに考えてんだか…………」
「ぁ……、寿人さんの、ことです」
「分かってるよ……」
長谷川がとろけるように笑う。
意地悪するとは言っても、結局この人はこんな風に優しい──。
今度こそ目の前の長谷川のことだけで胸を埋め、藤原はその首に腕を回した。
おわり。
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