本の精霊

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 古本には本の精霊が棲んでいる――。  麻亜矢(まあや)は本好きな少女である。  小さな頃からデパートの本売り場では、絵本コーナーに立ち寄るのが大好きで、そこで外国製の絵本を買ってもらうのが楽しみだった。  その頃はまだテレビは白黒画面であり、アニメ番組は数えるほどしかなく、しかもそれはお世辞にもうまいとは言えない絵でカタカタと画面上で動き、それに大音響で勇壮な音楽が流れ、セリフも棒読み風でおかしなものだった。  しかしそれはそういうものという事で、麻亜矢もおかしいとは思わなかった。  テレビの中のものはそういうもので、だから、麻亜矢は絵本の方が好きだった。  絵本には音楽がつかず、セリフも自分で声に出して読んだり、読みながら心の中で唱えないといけない。  しかしそれは、自分の声だから、人間の話言葉に聞こえた。  つまり、自分の裁量で人間らしくすることができた。  それなので、絵本なのだった。  本の売り場にはそのような、麻亜矢に『声』に出して読んでほしいと待っているような絵本が、目白押しに並んでいた。  それらの色とりどりの本を品定めするのは、麻亜矢には一番うれしいことだった。  後年まるでボーイフレンドを品定めするようだった、と麻亜矢はその頃のことを思い返す。  あの本はちょっと大人向け、この本はちょっと気取っている、こちらの本は派手すぎる。   そして、それらの本は、幼稚園にいる人間の子供のように、麻亜矢と関係なく動かずに、麻亜矢が手に取ってくれるのを、じっとおとなしく待っているのである。  その中でこれと決めた本を選び出す。  そして、母の史子(ふみこ)にせがんで、レジ売り場に持って行くよう交渉する。  それだけの事が日常の冒険だった。  もちろんお代は母史子が出しているものだ。  しかしそうして得た絵本は、麻亜矢がどのように扱っても構わないものだった。  キッチンで食べながら読んで、その上にジュースをこぼしても、間違って本の端を破いてしまっても、絵本は同じ顔をして、麻亜矢の事を待っている。  麻亜矢がいつかその絵本に飽きて、本棚の片隅にしまってしまっても、絵本はずっと彼女がまた手に取ってくれるのを待っているのだった。  そのようにして麻亜矢が買った絵本は、本棚にその頃ぎっしりと詰まっていた。  麻亜矢がどんな本を買って持っていたか忘れてしまっても、それらの本は変わらず本棚に眠っていたのである。  そんな平和な日常はある日突然破られた。  麻亜矢が幼稚園を卒園する頃、麻亜矢の本田家は引っ越すことになったのである。  それまで手狭だった平屋の一戸建てを出て、郊外の住宅地に移ることになった。  その頃弟の充弥(みつや)も生まれたので、引っ越しの荷物は少ない方がいいと、父哲弥(てつや)が言いだした。  母史子は夫の意見に従い、麻亜矢のたくさんあった絵本の荷物を減らすように麻亜矢に言った。  麻亜矢はそれを聞いて泣き出した。  全部持っていくと大泣きになったが、もううるさい、お人形を買ってあげると言われ、泣くのをやめた。  母史子はダンボール箱いっぱいの本と比べたら、小さなリカちゃん人形ひとつなら、まだましだと思ったのだった。  麻亜矢は史子に尋ねた。 「この箱の本、ここに置いておくの?」 「そうね。そうしなさい」 「置いていたらどうなるの?」 「誰かが取りに来るわよ」 「誰かって誰?」 「いいから早くなさい」  麻亜矢は母の言うとおりにした。  本棚からあまり好ましくない絵本をしぶしぶ選び、箱に詰めた。  ダンボールいっぱいに絵本が詰まったのを確かめて、母史子は家の裏の物置小屋の片隅に、そのダンボール箱を置いた。  トタン板で作られたその小屋は、その頃よく庶民の住宅に設置されていたタイプの物置小屋だった。  雨風はかろうじてしのげるというだけの代物で、床はベニヤ板だったし、それが四隅のレンガで支えられているだけの構造だった。  麻亜矢はその物置の奥の方に箱を引きずって置いた。  少しでも雨風が当たらないようにと思った。  それは引っ越しの前日で、次の日には軽トラックと引っ越しトレーラーがやって来て、麻亜矢の一家は軽トラックで新居に移った。  新しい家は二階建てで、麻亜矢の部屋は二階の西側の部屋だった。  家は勾配の上に建っていたので、その西側の窓からは夕陽がよく見えた。  夏は西日がきつそうだった。  夜、麻亜矢はまだ荷物が片付いていない子供部屋で布団にくるまりながら、あの絵本たちはまだ物置小屋に置かれていると思った。  その様を少し想像した。  薄暗い物置の真っ暗なところに置かれている箱を思い浮かべた。  麻亜矢はぞっとした。  麻亜矢は絵本に、幼稚園の映画で見た『ピーターパン』の中に出てくるティンカーベルのような妖精が宿っていて、今も寂しくてあの物置小屋で置き去りにされて泣いているに違いないと思った。  そうすると、新しい家がうれしいはずなのに、何かものさびしくなって、麻亜矢は自然にうっすらと涙が出て来た。 ――ごめんね、ごめんね。いつかまた会いに行くからね。  でも、それが何時なのかは麻亜矢には見当もつかなかった。  麻亜矢はひとりで電車にも乗れないし、あの引っ越す前の家までの道順もわからない。  何時かって何時だろう?  それは私がもっと大人になった時かな。  その時まであの箱はあそこにあるだろうか……。  麻亜矢は布団を目の下までずり上げた。  まぶたが重くなった。  やがて麻亜矢は静かな寝息を立てていた。  そしてその次の日、忙しそうに引っ越しの荷ほどきをしている母史子に、ダンボール箱を持って行きたかった事を言い出せなくて、そのまま何日かたった。  春に新しく入学する小学校の準備や、引き継いだ習い事の先生に挨拶に行ったりして、忙しく毎日の日々は過ぎた。  そんな風に両親に言い出せないまま、麻亜矢は箱詰めにした絵本のことを、やがて忘れてしまった。  麻亜矢は小学校に通うようになり、新しく国語の教科書を渡されて、漢字を習い始めた。  学校の授業は面白くて、すぐに麻亜矢は漢字で読み書きができるようになり、絵本のことは遠のいた。  前の家から持ってきた絵本は数冊あったが、麻亜矢はそれを開けなくなった。  その代わり、学校の図書で児童書の童話を借りたり、このころになるとカラーになったアニメや特撮番組を見るようになり、絵本は本棚にかろうじてある存在になった。  もちろん絵本が嫌いになったわけではなかった。  しかし麻亜矢は少し成長してしまったのだった。  絵本に書かれた物語は、アニメや児童書の物語よりも短くて、しかもカラーアニメのように動かなかった。  昔は吸い込まれるように絵本を眺めていたのが、嘘のようだった。  なぜあの時、絵本の中の世界に入っていけたのか、麻亜矢にはもうわからなくなっていた。  そして、その事を普段少しも考えなかった。  そうして日々は過ぎていった。  その頃麻亜矢は大好きな御菓子を食べ過ぎて、奥歯に虫歯ができてしまい、史子に 「気をつけないから。乳歯だから虫歯になりやすいのよ。だからちゃんと歯磨きをしなさいと言ったでしょう」 と叱られながら、歯医者に通うことになってしまった。  歯医者では麻亜矢は涙目になりながら大口を開けて治療をし、歯を削られて痛い痛いと死にそうな思いになっていたが、その時待合い室で見かけたのが、いわゆるその頃流行りだしていた「青年劇画」だった。  そのぼろぼろになった読み合い本の、途中でページが途切れたものに、白土三平著の『忍者武芸帖』があった。  巻数は第一巻のようだったが、途中から始まっていて途中で切れていて、全体の物語は麻亜矢にはよくわからなかった。  しかしテレビでやっている忍者アニメの、『サスケ』と同じ人だと思った。  そして、お話は『サスケ』よりもハラハラドキドキするものだった。  と言うのは、主人公の美青年が、女忍者に片腕を斬られてなくしてしまうからである。  こんなに残酷な話は、麻亜矢はそれまで読んだことがなかった。  だいたい女性が男性にこんな事をするなんて、考えられないと思った。  それまで読んだ童話の物語では、女性はお姫様で男性の王子様に守られているものだったからである。  しかし、この女性は男性の腕を斬り落として笑っている。  歯医者での治療の痛みも相まって、麻亜矢にとってその場面は、忘れられないものになった。  そしてその後、また歯医者に行くと、今度は同じそのシリーズの後の方の巻で、今度はその「重太郎」という片腕をなくした美青年が、他の美少女に病を介抱されて、助けられている場面のものが置いてあった。  なるほどそういう事か、と麻亜矢は納得したが、しかしそのような漫画が世の中にあるという事は麻亜矢には大発見だった。  しかし麻亜矢の母史子は漫画には厳しくて、そのような本は家に入れたがらなかったから、ある時夫の哲弥がこっそりと古本屋でその『忍者武芸帖』を買ってきているのを見て、怒ったりしたのである。  それは麻亜矢の家の奥まったところにある、祖母亜季子(あきこ)のいる寝起きしているコタツ部屋にこっそりと置いてあった。  麻亜矢はそれを遊びに来たその頃の友人の真理ちゃんと見つけて、 「あ、これ歯医者さんにあった本だ」 と言って、ページをめくったところ、くだんの重太郎が美少女を押し倒している場面を開けてしまい、真理ちゃんが 「あ、エッチだ」 と言うのを聞いて真っ赤になった。  そのページには「好き!」というセリフまで書いてあった。  真理ちゃんはしかし、すぐに本から興味を移し、 「これ食べていい?」 と、祖母のコタツ机の横の籠にあった、塗り箱の醤油せんべいに手を伸ばした。 「うん、いいけど……。一枚だけだからね」 と、麻亜矢は言い、ため息をつきながら本を閉じた。  重太郎が少し好きだったのでショックを受けた。  まさかそんな場面があるとは思わなかったのである。  麻亜矢はまだまだ子供だった。  それで、この本はもう読まないでおこうと決意した。  しかし、その場面以外の部分は、麻亜矢の興味を引いたので、後ろ髪を引かれる思いだった。  なぜならテレビの『サスケ』よりも戦闘場面が大人びていて、かっこよかったからである。  もう小学二年生になっていた麻亜矢は、その頃のテレビCMにあった「違いがわかる大人」になりつつあったのであった。  真理ちゃんとはその後、買ってもらったリカちゃんでお人形遊びなどしたり、『アタック・ナンバーワン』ごっこと称して庭でバレーボールをしたりして遊んだ。  『忍者武芸帖』の事は忘れられていたが、そんなある時、哲弥に会社の同僚らしい来客があり、応接間で数人でがやがやと話こんでいた。  本田家の応接間はそんなに広くなく、麻亜矢のピアノのお稽古用のアップライトピアノが置いてある。  その前にソファが並べられていて、引き戸は庭に面していて、その隣の部屋は日本間で、縁側がついている。  縁側の上には藤棚があって、夏場は藤棚から毛虫が落ちてくるので、史子が殺虫剤を撒かなければならないので嫌がっていた。  そのすりガラスのガラス引き戸の向こうの縁側に、向こう向きで誰か男の子が座っている。  麻亜矢はその時日本間で、知り合いのお姉さんからもらった『ムーミン谷の冬』という本を寝転んで眺めていた。  その時は秋だったので、毛虫はいなくて、藤棚は葉が少なくなっていた。  木漏れ日に照らされて、黒いコートを着た中学生ぐらいの男の子だった。  頭には黒い学生帽をかぶっている。  麻亜矢は、父哲弥の知り合いかなと思った。  まったく見知らぬ子供だったからだ。  と、その子がすりガラスの向こうから、ガラス戸をトントン、と叩く音がした。  どうやら向こうからは、麻亜矢がいる事が見えているようだ。  ガラス戸の向こうに踊る、叩く掌を見て、麻亜矢は一瞬躊躇したが、ガラス戸をがらっと開けた。  男の子がこっちを見ていて、手に何か持っている。  お皿にケーキのようなものが乗っていた。 「君、これ好きだろう?」 と、男の子は言った。 「お父さんのお客様ですか?」 と、麻亜矢が尋ねると、男の子は大きくかぶりを振って答えた。 「彼は僕のことをあまり好きじゃないからね。君の気を引く悪いやつだと思っている」 「悪いやつ……」 「そうだね。『忍者武芸帖』の重太郎みたいなやつ」 「あ!」 「君は彼のことを、悪いやつだと思ったろう?僕もだよ」  麻亜矢はそう言う相手の顔をまじまじと見つめた。  その重太郎の顔にも似ているような気がした。 「どうして知っているんですか?それ?」 「さあどうしてだろうね」 「だって見ているはずないし」 「そうだね」 「でも知ってる。そんなのおかしいし」  男の子はくすりと笑って、手のお皿を差し出した。 「これ君覚えてる?クグロフ」  麻亜矢には、そのお皿の上の茶色のパンケーキを切り分けたような物体には、見覚えはなかった 「クグロフ……。御菓子ですか、それ」 「そうだよ。クーゲルホップはドイツやオーストリアのクリスマスの御菓子だね。君がクリスマスプレゼントでもらった本に載っていたろう?」  麻亜矢の目が丸くなった。 「あ、あの本……。『おたんじょうび』だったかな?」  男の子が大きくうなずいた。 「そうそう、その絵本だね。大好きなおばあさんのお誕生日に、動物たちが大きなクグロフ型で手分けしてクグロフを焼いてお祝いする話。君のお気に入りだったね」  麻亜矢はまだ小さかったので、男の子が言っている事の不気味さにも気づかずに、引き込まれて相槌を打った。 「そう、あの本大好きだったの。何度も声に出して読んだわ。でも、どうして知ってるの?」 「さあどうしてでしょう?」 「わかった。その本を読んだことがあるのね」 「もちろんそうだね」 「でも、どうしてクグロフを私にくれるの?」  すると少年はいたずらっぽく笑ってこう言った。 「お母さんの史子さんに、御菓子を食べちゃだめとか、絵本を持っていくなとか、言われたんだろう?」 「そうだけど……」 「そういう君の事を、かわいそうだと思っているやつもいるって、わかってほしくてさ。君は一人ぼっちじゃない。これはそのお近づきの印さ。さ、食べなさい」 「うん……、いいの?」 「いいよ」  麻亜矢はおそるおそる少年からケーキ皿を受け取ると、座りなおして、皿についていたフォークでつつきだした。  ケーキは口の中でほろほろと崩れて、アーモンドの味がして美味しかった。  麻亜矢は口を動かしながら言った。 「クグロフってはじめて食べた。こんな味だったんだ。絵本で見た時は全然わからなかった。一度食べてみたいって思ってたんだ」 「それはよかった」  そこで少年はすとん、と縁側から立ち上がった。 「また来るよ。君がそう望むならね。ただ、本が本当になくなったら来れなくなるかも……」 「本が?」 「そうだね」 「あなたは誰?」  少年は秋の陽に照らされて、逆光の中でにこ、と微笑んだ。  そして、麻亜矢に顔を近づけてささやいた。 「僕はカナシ。『可もなく不可もなく』の『可』もないカナシだよ。覚えておいて」 「カナシ……。変な名前」 「学校の成績表に『可』がつかなかったからね。つまり、僕は落第生というわけさ」 「成績、悪いんだ」 「そう、頭が悪い。ついでに言うと、僕は君の嫌いな『忍者武芸帖』の岩見重太郎さ」  そこでカナシは意地悪そうな顔になって言った。 「その本、最後まで読める?君の歳ではちょっと難しいかな。絵本を読んでいる君の方がいい」  麻亜矢はあわてて、開けていた『ムーミン谷の冬』を閉じた。  カナシの言うとおり、今読んでいたが、知らない漢字が多くて目がすべっていたのだった。 「まっ、言ったわね」 「じゃあ」  カナシはそう言うと、その場でくるりと一回転した。  コートが黒いマントのようにひらひらっ、と風に翻って、その次の瞬間彼の姿は影も形もなくなっていた。  麻亜矢は心底びっくりした。  立ち上がって、カナシの姿を探したが、もう庭のどこにも見つけられなかった。  そして、麻亜矢の横からは、今食べていたクグロフの乗ったお皿が消えていた。  あとには秋のつむじ風が吹いているだけだった。  それはひとときの秋の日の魔法だった。  それから幾日かたった夕食の団らんの時間、史子が哲弥に、 「おばあちゃんの部屋に、劇画の本を隠して置いているでしょう。この前掃除した時に見ました」 と、お茶碗のごはんを食べながら言った。  哲弥は 「いいじゃないか、そのぐらい。友人にもらったんだ」 と言ったが、史子は 「嘘。古本屋の値札が裏についていました。こっそり買ったんでしょう。あんな本、デモをしている学生が読んでいるんでしょう。こわいこわい。爆弾を駅に仕掛けたりして」 と不機嫌そうに言った。  哲弥はそれを聞くと、罰が悪い顔になり 「あれはただの時代劇だ。特にデモをあおるような内容じゃあない」 と言って、 「おかあさん。本を置いていてどうもすみませんでした。僕の部屋にもらいます」 と、哲弥の母の亜季子に言った。  亜季子は老人性の背を折り曲げてごはんをもそもそと食べていたが 「……漫画の本でしょう。麻亜矢ちゃんも読むかね」 と、少女のようなかぼそい声でつぶやいた。  それを聞くなり、史子はごはん茶碗を食卓に乱暴に置いて、 「教育上よろしくないんです。あの本は、処分した方がいいでしょう」 と言った。  哲弥は 「そんな乱暴な」 と言って、食卓から立ち上がりかけた。  史子はたたみかけるように 「麻亜矢が読んだらよくない場面も中にはありました。ああいうのは、この子にはまだ早いです」 と厳しく言った。  哲弥はあきれたように史子に言った。 「なんだおまえも読んでいるんじゃないか」 「だったらどうなんです?麻亜矢が見ていいかどうか、判断しただけですから」  麻亜矢はごはんを食べながら悲しい思いで両親のいさかいを聞いていた。 ――またお母さんが、本をどこかへやるんだ。 と、思いながらも、麻亜矢はうつむいて 「お母さん、私あんなの読まない」 とだけ言った。 「そうね、麻亜矢は読んじゃいけません。今度町のごみ回収の日に出します」 「俺の本だぞ」 「だめです。劇画なんてだめですからね」 「なんだよ、もう。えらそうにな」  哲弥はそう言ったが、それ以上史子に逆らわず、夕刊をばっと手に取ると立ち上がって、自分の部屋に入り閉じこもってしまった。  麻亜矢は少し泣きそうな気持ちになって、ごはんを無理やり喉に押し込んでいた。  母史子のきつい物言いは、今にはじまった事ではなかった。  母が言うから、幼い頃絵本も捨てたし、今ピアノのお稽古だってしている。  しかし母は、自分の事をよくやったと認めてくれたことはない……。  その夜麻亜矢は布団の中で、久しぶりに引っ越す前に残してきたダンボールの絵本のことを思い出していた。  あの箱はきっともうない。  あったとしても、もうぼろぼろになってる。  もう何年もたっているんだ。  母は今度は本当に捨てるって言ってる。  重太郎はエッチだからだめだって言ってる。  でも、あの話の重太郎はかわいそうだった。  お母さんみたいな気の強い女に片腕を斬られているんだもん――。 「『ムーミン谷の冬』なら、捨てるって言わないのにね」 と、麻亜矢は声に出してささやいた。  あの本は、母の仲良くしている奥さんのところの娘さんがいらないと言ってくれた本だ。  ああいう本なら捨てるって言わないんだ……。  しかし麻亜矢は劇画の本がどうしても惜しいというわけでもなかった。  母が親の権限でなんでも決めてしまって、麻亜矢の自由にはならない事が、ただ悔しいだけなのだった。  そして、そういう母が世間一般の良識で、いつもその行動を判断している事が、麻亜矢には息苦しく思えるのだった。  『ムーミン』の本なら安全だからというのは、麻亜矢も少し読んでわかっていた。  あれはただのファンタジーものだから。  そう、昔読んでいた絵本の延長線上の世界……。  母は麻亜矢がそこに居続けるのが安全だと言うのだ。  だが麻亜矢には、その世界線がいつか終わりを告げるのが予感としてわかっている。  その、崖みたいなところが、あの劇画で見た危ない場面だったのだ。  ふと麻亜矢は、その重太郎について言及した少年のことを思い出した。 ――あのお兄ちゃんも、あの時そういう事を言ったんだろうか……。  確かカナシとかいう男の子だった。  「絵本を見ている君の方がいいよ」、と彼は言った。  なんでそう思い出すんだろう。  そして、母の史子とは違うと私は思いたいんだろう。  あの人にもう一度会って、それはどういう意味だったか聞きたい。  やっぱり母と同じなんだろうか。  私は幼いままでいた方がいいって意味だろうか。 「『ムーミン』の本も難しくて読めないって私に言ったんだもん、きっと私の味方じゃないよ」 と麻亜矢は独り言を言うと、カナシを否定した事で問題をひとまず棚上げできて、安心して目を閉じて眠りについた。  麻亜矢は夢を見ていた。  目の前の霧の中にあの、カナシという少年がぼんやりと佇んでいるのが見えた。 ――あ、前の家のくちなしの生垣だ。 と、麻亜矢は思った。  足元に白い、少しいい匂いのする花が咲き乱れている。 「来たね」 と、カナシは麻亜矢に言った。  麻亜矢は気が付くと、胸いっぱいに絵本を抱えていた。  「お母さんに捨てられた本だね」 と、カナシは言うと、幼い姿に代わっている麻亜矢の頭を静かになぜた。  麻亜矢は 「いつまでもこのままでいちゃいけないの?」 と、カナシに言った。 「いけないんだよね?」  麻亜矢の目から涙がぽろぽろとこぼれた。 「カナシもそう言った。『ムーミン』の本読めないって」  麻亜矢がそう涙声で言い募ると、カナシは笑って答えた。 「あはは、言ったかなあ。僕は君が自然なままな方がいいと思って、あの時そう言ったんだよ。それは、成長しないというのとは少し違うな」 「成長?」 「そうだね。誰でも時間がたつと大人になる。それは止められない。人間は歳老いるものだからね。君もそうだ。だから、お母さんがその順番で君に本を読ませようとしているのは、親としては正しい。だけどね」 と、カナシは続けた 「人は直線(まっすぐ)には進まないものなんだ。三歩進んで二歩下がるって歌謡曲、テレビで昔やってただろ?あれだよ。君のお母さんみたいな人には、それがなかなかわからないんだなあ」  麻亜矢の目が丸くなった。  この人は、麻亜矢の聞きたかったセリフを言ってくれる人だと思った。  麻亜矢はカナシの言葉を口の中で反芻した。 「まっすぐに進まない……」 「うん、まっすぐに進んでいるようでもね、進み方が螺旋だったりするものなんだ。それが人間の時間なんだ。これは僕が昔史学の時間に教授から聞いた話。だから、成長していないとかしているとか、実にくだらない話さ。ただ、僕の時間はもう止まっているけれど……」 「え」  カナシはそこで少し笑ってこう言った。 「僕は『本の精霊』なんだよ。古い本に憑いている。だから、本がなければ生きていけない。君とこうして話をする事もできない。あの本もね、そうさ」 「本の精霊……妖怪なの?『ゲゲゲの鬼太郎』に出てくるみたいな?」 「まあそんなものだね」  麻亜矢の姿はいつの間にか歳相応になっていた。  麻亜矢は尋ねた。 「あの、忍者漫画がそうなんですか」 「うん。言いにくいけどね」 「じゃあ、あの本捨てなければまた会ってくれるの?」 「たぶんね」 「私またカナシに逢いたい」 「それは果たして君にいい事かなあ。僕は消えた方がいいのかも……」 「そんなの嫌だよ。私の疑問に答えてくれる人、ずっと探していたんだ。カナシはそうだもん」 「あはは、そうだね」
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