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1 ๑ 闘鶏
2005年 ~タイ王国首都バンコクにて~
◇
なぜ闘うのかわからない。
本能だけが二羽の軍鶏を震い立たせていた。
真夜中のバンコクのような漆黒の羽を纏ったダムと、茶に赤の混じった羽毛と燃えるような鶏冠を持つデーン。共に歴戦の強者だ。
彼らはその鋭い嘴を互いに突き刺し、獰猛に羽ばたき、鋭利な爪を拡げて容赦なく相手に襲いかかった。
錆びたトタン板を折り曲げて作っただけの円形の闘鶏場の縁には、およそ三十人を超す労務者風の男たちが取り付いて、興奮し、下卑た声をあげていた。
〈そこだ、ダム、行け!〉〈デーン、止まるな、やり返せ!〉〈もっと速く! 速く! 速く!〉〈そうだ、いいぞ、やっちまえ! 殺しちまえ!〉
ダムとデーンは男たちの声が耳障りで気障りで血が沸き立ってどうしようもなくて、その溢れんばかりの闘志を相手にぶつけた。
そこは建築途中で放置された十階建てビルの二階――。コンクリート剥き出しで窓ガラスなどなく、床にはメコンウィスキーの空き瓶やシンナーを吸引した後のビニールが散乱し、壁には卑猥なタイ語がスプレーインキで殴り書きされていた。
ガイチョン同士を戦わせてその勝敗に金を賭ける行為、それを闘鶏と呼ぶ。タイ式ボクシングや闘魚と並ぶタイ・ギャンブルの王道である。
現在では法律で禁止されている為、バンコク市内ではこうして目立たぬ場所を確保し、臨時の賭場としている。
彼らのような愛好家たちは不定期に場所を移動し、警察に悟られぬよう秘かにこのタイ伝統文化を後世に残そうと努めているのだ。
もっとも地方に行けばいまだ法の権威及ばず牧歌的で、何よりも暇を持て余した警官たちの多くがこのチョンガイを楽しみにしており、それこそ制服姿のまま金を賭けて楽しむ彼らの姿が当たり前のように見られる。
沢村健一は鶏の決闘にあまり興味がもてず、道端の屋台でよく見かける小さなプラスチックの椅子に座ってぼんやりと空を眺めていた。
ついさっきまで二月特有の乾燥した青く高い空が広がっていたのに、いつしか濃い灰色に変わっている。
気がつくと白いTシャツの上からベージュのサファリベストを着て、黒いレイバンをかけた年配の男が目の前に立っていた。見たところチョンガイの胴元のようだ。
男はその顔に卑しい微笑を湛えていた。いっこうに金を賭けようとしない場違いな日本人の存在が気になるのだろうし、その日本人から幾らか巻きあげてやろうという魂胆があるのかもしれない。
「お前、日本人か?」
健一は男を見上げて黙って頷くとすぐに目をそらした。
「珍しいな」
「ああ。向こうで遊んでいる友達に誘われて来たんだ」
健一はそう言って顎で指し示したが、闘鶏場の周りは人が多過ぎて、いったい誰のことを指しているのか男にはわからなかっただろうし、健一も本気で理解させたい訳ではなかった。ただ、ここにいる理由を当たり障りなく伝えたかっただけだ。
「ずいぶんタイ語がうまいな」
「ああ。もうこっちに五年いるからね」
そこで男の肩から僅かに力が抜けた気がした。消えたのは淡い期待か、それとも外国人に対する微かな緊張か。
男はサングラスを外すとTシャツの裾でレンズの表面を磨き、再び顔に戻した。レンズの右端にはこれみよがしなレイバンのロゴ。もちろん本物ではない。このバンコクでは精巧なコピー製品が二百バーツ、およそ六百円ほどで手に入る。
「お前も金を賭ければいい。なんなら俺が勝つ鶏を教えてやろうか」
「いや、いいよ。俺はあまり賭け事に向いてないんだ。すぐに熱くなっちまうんだよ。ジャイローン(熱い心=短気の意味)ってやつ」
それを聞いた男は我が意を得たとばかり、不敵な笑みを浮かべた。
「そうか、ジャイローンか。そいつはダメだな。ジャイローンはダメだ。俺はジャイイェーン(冷たい心=冷静の意味)だからな。常に冷静に、勇敢な鶏、強い鶏を見極められる。だから賭け事で負けたことは一度もないんだよ」
健一はその、如何にもタイ人らしい信憑性の欠落した法螺話を軽く聞き流した。
その時、闘鶏場の男たちが興奮して沸き立つのが聞こえた。勝負に劇的な展開があったのかもしれない。ここから友人の姿は見えないが、恐らくその小さな体を無理矢理に押し込んで、リングサイド最前列で戦況を見守っているのだろう。
男はサファリベストの右ポケットから煙草を取り出して一本勧めてきたが、健一は笑顔を浮かべて断った。男はさして構う風でもなく煙草を咥えるとライターで火をつけ、すぐに濃い紫煙を吐き出した。その表情からはすっかり感情が消えていた。
「いいか、日本人。この場所のことは誰にも言うんじゃないぞ。言えばきっと良くないことが起きる。いいな」
男はそう吐き捨てると、健一の返事を聞くまでもなくギャンブラー達の喧騒の中へと戻って行った。
ダムは鶏特有の啼き声をあげて次々に嘴を繰り出していった。
勝つ為に――。生き残る為に――。
いつしかデーンは防戦一方になっている。ダムは黒い羽を大きく拡げ、鋭い爪で斬りかかった。デーンも応戦する。
再びダムが飛び、デーンもまた飛んだ。そして先に着地したダムが嘴を強く突き刺した。硬い羽毛の下にある柔らかい胸肉目掛けて。
怯んだデーンは痛みと怒りで真っ赤に充血した鶏冠を振り乱して、闇雲に飛び、闇雲に反撃した。二羽が衝突を繰り返すたびに羽毛が飛び散り、鳴き声が周囲に響き渡った。
次第にデーンに賭けた男たちの歓声が弱まっていく。ダムは的確に、そして残忍にデーンをついばんだ。このままデーンが背中を向ければ勝負はつくが、それでもデーンは反撃を試み、その結果、見るも無残に傷付いていった。血の滲んだ胸肉を露出させながら、必死の思いで伸ばした爪でダムを掻きむしり、力ない嘴を突き出す。
運命の神がいるのなら奇跡の逆転劇も演じられよう。しかしそこに――、トタンで誂えただけの即席の闘鶏場に神は不在だった。代わりに、汚れて襟の伸びたTシャツ姿の男が割って入り、庇うようにしてデーンを抱え込んだ。
デーンは興奮してもがき、その鋭い嘴を飼い主にも向けたが、それよりも遥かに強い力で押さえつけられて、抵抗虚しく、ただ力なく啼いた。
「ケン、ダメだ! 今日はダメだ! 畜生、もう千五百バーツもすっちまった」
興奮した群衆から抜け出してきたレックは、開襟シャツの前ボタンをはだけたまま、浅黒い肌に汗を滴らせて言った。
レックは健一をケンと呼ぶ。レックだけではなくタイにいる知人は皆、健一のことをそう呼んだ。それはタイではごく当たり前に使われているニックネームだった。〈ケンイチ〉という発音はタイ人には少し難しいのだ。
「なあ、ケン、あとちょっと。……そうだな、三百バーツくらい貸してくれないか?」
健一はうんざりして首を横に振り、その申し出を断った。レックは「オーイ」と大袈裟に仰け反って嘆いたが、それでも健一は首を横に振り続けた。
「今日はひと勝負だけって約束だったろ、レック。もう仕事に戻る時間だぞ」
「まだ大丈夫だって。それに空を見てみろよ。もうすぐスコールが来るよ。そしたら今日の仕事はキャンセルになるって。だからさ、あとひと勝負だけ。なあ、頼むよ」
レックは既に三連敗しているし、決まって負けだすと見境がなくなる。レックもまたギャンブルにおいては無類のジャイローンだった。
「だってさ、ケン。次に出るあの黒くて大きな鶏を見てみなよ。金色のタテガミがまるでライオンみたいじゃないか。あいつは絶対に強いよ。あいつなら負けない。あいつならさっきの負けを取り戻せるから。きっと倍にして返せるよ。大丈夫、絶対に強いって」
「ダメだ、レック。時間だ。そんなに金を取り戻したいんなら、仕事が終わってから賭場でもなんでも行けばいいじゃないか。とにかくもう行くぞ」
レックは駄々をこねる子供のように地団駄を踏んで抗議の意思を表してみせた。
このレックという名前も本名ではない。そもそもタイでは本名を名乗る習慣がない。皆、チューレンで呼び合うのだ。
レックとは〈小さい〉という意味だが、なるほどその名の通り、レックの身長は百五十センチを僅かに超す程度だ。しかもクリクリとした二重瞼の童顔なので、二十六歳という実年齢よりもずっと幼く見えた。
健一はすがるレックを無視して、今にも朽ちて落ちそうな骨組みだけの階段を降りていった。その少し後をぶつくさと文句を言いながらレックが続く。階段の上から再び沸き立つ男たちの歓声が響き渡った。次の試合が始まったのだ。
建物の外に出るとアスファルトの上に一つ、二つ、大粒の水滴が落ちて滲んだ。健一とレックはそれを合図に路地に停めたトヨタ・ハイエースに急いだ。
そして二人が車に乗り込むのと同時に、機関銃の一斉掃射のような激しい雨が視界を埋め尽くした。それは乾季の終わりを告げる一足早いスコールだった。
雨の勢いで次期首相選の選挙ポスターが剥がれて地面に落ちた。水溜りの中、白い歯を見せて笑う中国系タイ人政治家の歪んだ顔の上に、さらなる水の弾丸が容赦なく降り注いだ。
こうしてスコールが来る度に少しずつ気温と湿度が上昇していく。
健一はうんざりして溜息をもらした。
バンコクにまた、あの蒸し暑くて残忍な季節が戻ってくるとわかっているから。
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