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2 ๒ 百合子
タイ時間、午後十時――。
タイ航空機は定刻よりも僅かに早く『ドンムアン国際空港』に着陸した。
長い行列の果てに無愛想極まりない入国審査を経て、ベルト・コンベアから自分のスーツケースをピックアップした頃には既に十一時を回っていた。
手荷物検査場に係員はおらず、素通りして迷路のような狭い通路を抜けると、到着ロビーに出た。
そこは天井が高く、どことなく薄暗い。目の前には胸まで高さの鉄柵が設置され、そこに大きな目、浅黒い肌、掘りの深い顔立ちをした大勢のタイ人が犇き合っていた。彼らは一斉に獲物を射るような視線を、単身到着した笠寺百合子に向けてきた。
到着ロビーは左右に細長く広がり、目の前の柵も到着客を左右どちらかに誘導するように設置されている。百合子は少しだけ迷ってから左方向に歩を進めた。
「タクシー、タクシー」
人混みのあちこちからまるで競り市のような声がかかる。日本人の名前がアルファベットで書かれたカードを掲げている者もあれば、ただ単に大声で注意を引き、手を振って笑顔を向けてくる者もあった。
百合子はパッケージ・ツアーに申し込んでいる訳ではなかったし、特別に迎えの車も手配してなかった。ここからバンコク市内のホテルまでタクシーで行けば良いだろうと軽く考えていたのだ。
傷んで錆びたような茶髪で、痩せた二十代半ばの日本人男性が、口髭を生やしたタイ人に腕を捕まれていた。
〈タクシー、リムジン、ニセンバーツ、ヤスイ〉〈ええ、二千バーツ? 高いよ、高い。無理だよ〉〈ヤスイ、リムジン、ニ千バーツ、OK?〉〈ノーサンキュー〉
聞こえたのはそこまでだった。タイ人は男の背中に腕を回し、満面の笑みを湛えて消えて行った。きちんと値段交渉が出来たのだろうか。それともいとも簡単に言いくるめられてしまったか。
百合子は成田空港の銀行窓口で日本円をタイ・バーツに換金してきていた。十万円で二万九千バーツと少し。以前一度タイに来た時に、バーツの日本円換算は約三倍にすれば良いと教えられていたから、その時と概ね同じようなレートである。
タクシー代金が二千バーツということは日本円で約六千円。極めて物価が安いとされるタイでそれが如何に法外な金額か、わざわざ計算するまでもなかった。
百合子はまとわりついて来るしつこい客引きを無視して、空港出口へと向かった。そして外に出た途端、想像を絶する蒸し暑さに襲われた。
鼻をつく異臭――、重油と腐ったような果物――、馴染みのない香辛料の香り――。全身が一気に重くなり、脇や背中に汗が噴き出すのを感じた。ストッキングが蒸れて、汗が染みたニットの首元も不快でたまらなかった。
今朝の東京は二月らしく厳しい冷え込みだったので、百合子は厚手のダウンコートを着て家を出て来た。それでも東南アジアは年間を通じて暖かいということは知っていたから、コートの下は薄着で来たつもりだ。しかしたった七時間のフライトで、ここまで気温差と湿度差があるとは想像がつかなかった。
大型バスやタクシーが並ぶ駐車場の暗がりに、数人で固まって煙草を吸っている男たちがいた。その内の一人が百合子に気付き、笑顔で近付いて来ると、スーツケースに勝手に手を伸ばして、如何にも約束があったような親しげな微笑みを向けてきた。
「ドントタッチ!」
百合子は少しきつい口調で言った。男は驚いて手を離すと、道化を思わせる滑稽な仕草で笑って見せた。そして背後の男たちに振り向いて何やら言葉を交わすと、手を叩いて、互いに大声で笑った。
百合子は彼らを無視して、足早に駐車場を横切って行った。早くまともなタクシーを見つけなければ――。
遥か頭上で高速道路の高架がカーブを描いている。周辺に店やネオンはなく、タイ王国の玄関口となる国際空港前としては些か殺風景でみすぼらしい。
国道らしき大通りの路肩に、黄色と深緑色のタクシーが停まっていた。それは遠目に見ても決して綺麗とは言えない車だが、傍らに立つドライバーらしき男性はまだあどけない少年のように見えたので、百合子はおもいきって声をかけてみることにした。
「タクシー?」
少年は笑顔で頷いた。
「ロイヤルパークホテル――。ハウマッチ?」
少年はしばらく考えてから五百バーツと答えた。それが妥当な金額なのかどうか百合子には判断がつかなかったが、今から他のタクシーを捜すのも面倒だったので、百合子はオーケイと答えた。先程の二千バーツと比べればずっと良心的な金額なのは間違いないし、この少年はさほど駆け引きが巧みではないのだろうとも思えた。
少年は恭しく百合子のスーツケースを持ち上げると、トランクに仕舞い、続けて後部座席のドアを開けた。車は見た目以上に傷んでいた。サスペンションの効かない乗り心地は異常に悪く、シートはところどころ破れて、中のスポンジがはみ出ており、助手席側のガラスにはヒビが入っていた。
しかも走りだしてから気付いたのだが、スピードメーターが作動していない。ガソリン残量もあと僅かしかない。それでも少年は涼しい顔でアクセルを踏み続けた。
ラジオからタイの演歌のような、もしくはポップスのような陽気な音楽が流れていた。動かない計器類の上に小さな仏像が飾られ、その隣には座禅を組む僧侶の古ぼけた写真が貼られていた。タイ人には仏教徒が多いと聞く。少年に信仰心があるというだけで百合子は少しだけ安心できた。
少年が振り向いて「ホテル?」と尋ねてきた。先程はっきりとホテル名を告げた筈なのに聞いていなかったのだろうか。
「ロイヤルパークホテル。ユーノウ?」
少年は少し考えてから、オーケイオーケイと頷いた。百合子は自動巻きの腕時計を外し、時針を二時間戻した。日本時間は深夜一時半。タイではまだ夜の十一時半である。
少年が何事か言って振り向いた。百合子は聞き取れなくて聞き返した。少年は頭上を指差して「トーウェー、トーウェー」と繰り返している。察するに〈トーウェー〉とは頭上を走るハイウェイのことを指しているのだろう。高速道路を使っても構わないか――、という意味の問いかけに違いない。多少の料金がかかったとしても早くホテルに着くほうが有難かったので百合子は、オーケイと返した。そして推測通り、車は高速道路に乗り、一気にスピードをあげた。
道の左右に巨大な広告看板が連なっている。それは日本と韓国、それぞれの自動車や家電メーカーの広告だった。前に来た時は日本企業ばかりが目についたが、今では韓国企業の方が多く感じる。また少年が振り向いて何事か言った。
「シルク、タイ・シルク、チープ、ベリーグッド」
百合子は困惑した。少年は親切心から純粋にタイの名産品を教えてくれているのかもしれない。少年が続けた。
「シルバー、ゴールド、ルイ・ヴィトン、チープ、ベリーグッド」
違った――。百合子はうんざりした。見かけはあどけない少年でも中身は他のタクシードライバーとたいして変わらないのだ。
百合子は少年の言葉を無視して、窓の向こうに流れゆく景色を眺めた。遠くに幾つもの高層ビルが見える。それは暗闇に宝石箱を散りばめたような美しくも、いかがわしい夜の景色だった。
観光協会のパンフレットには〈微笑みの国、タイランドへようこそ〉とあった。また別のパンフレットには〈天使の都、バンコク〉とも書かれていた。百合子はやるせない皮肉を感じて思わずため息をついた。目の前にあるのは〈魔都バンコク〉……それは忌むべき街の名だった。
車はハイウェイを下りて街中に入った。一般道は少し渋滞しており、進みが悪かった。少年は何度かハンドルを叩くようにしてクラクションを鳴らすと、強引に割り込んで左に曲がった。見た目以上に気性が荒いようだ。百合子は少しだけ身構えた。
また少年が振り向いた。
「シーフード、タイフード、ベリーグッド、チープ」
百合子は簡単な英語で〈ありがとう、でもお腹は減ってない、眠いから早くホテルに行ってほしい〉と出来るだけ穏やかな口調で告げた。それを聞いた少年の横顔に変化は見られなかった。
車は繁華街から離れ、一見住宅街のような明りの少ない地域に入って行った。土地勘のない百合子でも、ここがホテル地区でないことは分かった。
そのまましばらく進むと大きなエビを模ったネオンが見えてきた。英語で〈シーフード〉とある。そして車が停まり、少年が笑顔で振り向いた。
「しつこい」百合子は日本語でそう呟いていた。「ほんと、しつこい」
続けてはっきりとした英語で「アイアムノットハングリー! ゴートゥーホテル!」と大声をあげた。
途端にそれまで少年の顔にあった微笑みが消えた。少年は何事か喚いて力任せにハンドルを叩き、「ユーセッドサンキュー」と叫んだ。少年の顔は怒りで真っ赤になっていた。
確かに百合子は片言の英語で「サンキュー」と言った。けれどもそれは少年の好意に対してであって、決してレストランに行きたいという意味ではなかった。しかし考えてみれば日本語的な曖昧な表現だった。彼にはハッキリと「ノーサンキュー」と伝えるべきだったのだ。
少年はドアを開け放つと、車の後方に向かって行った。百合子は身の危険を感じて車から降りた。少年はトランクから百合子のスーツケースを持ち上げると、そのまま地面に放り投げ、勢い良く蹴り飛ばした。そして手の平を差し出してきた。
「サウザンバー!」
「えっ?」
「サウザンドバーツ!」
百合子は倒れたスーツケースを立て直すと、出来るだけ穏やかな口調で訊いた。
「約束は五百バーツでしょう?」
しかし少年は「タクシー、ファイブハンドレッド、トーウェー、ファイブハンドレッド」と続けた。タクシー代金が五百バーツ、高速料金が五百バーツ、合わせて千バーツだと。
それはでたらめだ。高速料金がそんなに高い筈がない。けれど、ともすれば暴発しそうな怒りを、少年は溜め込んでいるように見えた。百合子は危険を回避する為に仕方なく千バーツを支払った。日本円にして約三千円。乗った距離から換算すれば日本のタクシー料金よりも高い。
少年は紙幣を乱暴に受け取るともう一度、「ユーセッドサンキュー」と吐き捨てて運転席に乗り込み、何度もアクセルを吹かしてから去っていった。
結局、百合子は見ず知らずの場所に置き去りにされてしまった。目の前にはひとけのないシーフードレストラン。周辺はシャッターの閉まった店舗が何軒かあるだけで、住宅街の灯りはほとんど消えていた。車通りもほとんどない。
百合子はスーツケースを引きずって、もと来た道を戻って行った。大通りまで出ればタクシーが拾えるかもしれない。けれど本音ではもうタイ人の運転するタクシーには乗りたくなかった。
十分ほど歩くと僅かに賑やかな通りに出た。路肩の暗がりに屋台が何軒か並んでいる。電柱に裸電球が一つ。そこで汁そばのような料理を啜る男たちが一斉に百合子を見つめた。
百合子は先程のタクシーの少年とのやりとりを思い出し、彼らと目を合わさぬようにして通り過ぎた。もうとっくにメイクは崩れてしまっているだろう。汗が背中をつたっていくのが感じられる。何もかもが不快だった。
しばらく進むと往来の激しい片側三車線の大きな道路が現れた。どの車も必要以上にスピードを出しているように感じられる。
その道路を渡った反対側の五十メートルほど右手に『ファミリーマート』の看板が見えた。それは日本とまったく同じデザインの看板だったから、百合子は少しだけ安心して、ひとまずその明かりを目指そうと思った。
しかし左右どちらを見渡しても歩道らしき信号は見当たらない。結局、百合子は五分ほど往来の途切れるのを待ち、一団の最後尾のトラックが過ぎ去った直後に、スーツケースを引きずって駆け足で道路を横断して行ったが、もう少しで対岸に辿り着く寸前に、猛スピードで飛ばすセダンにクラクションを鳴らされて煽られた。目測では充分に余裕があったのに、あの車は敢えてアクセルを踏みこんだのだ。そこには明らかな悪意が感じられた。
『ファミリーマート』の前にグレーのTシャツに短パン、サンダル姿で痩せぎすのアジア系の男がいた。見たところ四十歳前後だろうか。眼鏡の奥が数メートル手前からじっと百合子を捉えていた。百合子は警戒心を抱きながらも思いきって声をかけてみた。
「すみません、日本の方ですか?」
「ああ、そうだけど」
「ロイヤルパークホテルって、どうやって行けばいいでしょうか」
「えっ? ロイヤルパークってスクンビットの? ここからは結構、離れてるよ。車で行かないと」男は値踏みするように百合子を見た。
「俺もちょうどアソークまで行く用事があるから、一緒に乗せていこうか」
百合子は男の見え透いた下心に気付いていたけれど、言葉の通じないタイ人と二人きりになるよりはずっとましだった。
「助かります。お願いします」
「それは危なかったね。先々月だったかな。日本人のスチュワーデスがタクシー運転手と口論になって、拳銃で腹を撃たれて大怪我したんだよ。タイ人はいつもヘラヘラ笑ってるから、一見穏やかそうに見えるけど、実際はみんな短気だからね。特にここは男尊女卑の国だから、女に馬鹿にされると男はすぐにキレるんだよ。いや、ほんと危なかったね」
男は佐藤と名乗った。タクシーに乗り込んでからずっと一方的に喋っている。他人との会話に飢えていたのかもしれない。
車は片側三車線の大きな通りから左折して、賑やかな通りに入った。両側の歩道に外国人の姿が目立ってきた。さらに右折すると今度は高架沿いの道を進んだ。歩道にはTシャツや雑貨を売る露店が軒を並べ、その合間にはイスとテーブルを並べた食べ物の屋台もあった。この辺りの風景に百合子にはどことなく見覚えがあった。
「ところでバンコクへは何をしに?」
佐藤は、家電メーカーの仕事で単身赴任しているという自分の身の上話に百合子があまり関心を示さないことに気付いたのか、話題を早々に切り上げ、とってつけたように質問してきた。
「人に、会いに――」
「それって彼氏? ひょっとしてタイ人だったりして」
「違います」
「だったらいいけどさ。タイ人はやめといた方がいいよ。あいつら嘘吐きだし、いい加減だし、働かないし。日本人の女のことは便利な財布くらいにしか思ってないからね。とにかくタイの男はダメだよ」
百合子は答えなかった。何故なら百合子は婚約者に会いに来たからだ。相馬慎太郎という名の、百合子にとっては誰よりも大切なその男に会うために――。そんなことを会ったばかりの佐藤にわざわざ説明するつもりはなかった。
車はまた左折して細い路地に入っていった。道の両脇に赤いネオンのカウンターバーが連なっている。店先には露出度の高い服を着た女性が何人もいて、道行く人々を目で追っていた。
「着いたよ」
佐藤に言われて見上げると、高層の豪華なホテルが目の前にあった。
「いいホテルに泊まるね。俺なんか家賃六千バーツのボロアパートだよ」
佐藤はタクシー料金を払って車から降りた。
「私、払います」
いいの、いいの――。佐藤はそう言って足早にロビーに向かった。いったいどういうつもりなのか。
年若いホテルマンが百合子の荷物をカートに乗せながら名前を尋ねてきた。
「ユリコです。ユリコ・カサデラ」
百合子は日本の旅行代理店で航空券と一緒に計五泊の宿泊予約をしていた。もし滞在がそれ以上長引くようなら当然延長するつもりだった。
エントランスから中に入ると広大なロビーが広がり、右手奥にフロント・カウンターがあった。見渡す限り宿泊客は欧米人が多いようだ。次いで日本人観光客の姿が目立っていた。しかしロビーに佐藤の姿は見当たらなかった。どこへ行ってしまったのだろう。
年配の男性フロントマンがクレジットカードでのデポジットを要求してきた。百合子は少し考えてから、キャッシュでも構わないかと尋ねたところ、フロントマンは「問題ありません、一万バーツです」と答えた。
渡されたルームキーには〝一五〇七〟と表示されていた。百合子はフロントロビー奥のエレベーターホールに向かい、開いたドアの中に入った。そして十五階のボタンを押そうとしたその時、佐藤が乗り込んできた。
「なんですか?」
「一応、部屋のチェックをしてあげるよ。日本人はおとなしくて文句を言わないから、よく眺望の悪い部屋をあてがわれるんだ。こういうのはね、気に入らなけりゃ代えてもらえるんだから」
「大丈夫です。降りてください」
「どうせ一人なんでしょ。いいじゃない。あとでバンコク案内もしてあげるし」
百合子は顔が熱くなるのを感じた。もうこれ以上我慢が出来なかった。
「しつこい。降りて! もううんざり! 早く降りて!」
百合子の声は自分で思っている以上に大きかったのか、エレベーターホール近くにいた外国人数名が驚いて何事かとこちらを見つめていた。佐藤の顔が真っ赤になってひきつっていた。
「なんだよ、そんな態度だからタクシーに捨てられるんだろうが! 何様なんだよ。どうせ男を買いに来たんだろう、このスケベ女が!」
そう悪態をついて佐藤は足早に去っていった。
百合子は大きなため息をつき、無遠慮な視線を無視してドアを閉めた。静かに上昇していくエレベーター。既に深夜一時を回っている。
部屋に着いても苛立ちは収まらなかったが、それよりもひどい疲れがどっと押し寄せてきていた。
百合子は巨大なベッドに倒れこむようにして横になると、目を閉じて、深い呼吸を繰り返した。そして何もかもバンコクという街が悪いのだと、百合子は自分に言い聞かせた。何もかも。そう何もかも――。
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