37 ๓๗  ガオグライ

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37 ๓๗  ガオグライ

 ソイ・ゼロ。夜の十一時――。いつもなら賑わっている筈のこの時間も、戒厳令に等しい緊急事態の為、ほとんどの店が休業していたが、一軒だけ開いている店があった。それが『フォーチュン』という名のビリヤード屋だった。そこは以前、吉本がに殴られた場所だ。  健一が中に入って行くと男が五人いた。加えて今夜の仕事にあぶれた三人の派手な女たちの姿もあった。中央でキューを持ち、台に屈んでいるのは間違いなくガオグライだった。その顔に傷はない。はだけたシャツの胸もとで太い金のネックレスと三つのプラクルアンが揺れていた。それは何度も見てよく知っている、ボーウィの大切なプラクルアンだった。  ガオグライは健一の登場に気付き、幽霊でも見たような驚いた表情を浮かべた。 「お前、ひょっとしてボーウィを捜してるのか?」  ガオグライはその醜い顔一面に卑しい笑み貼り付けて言った。 「なあ、クロントイのゴミ捨て場は捜してみたか?」  その場の全員が笑った。ガオグライはビリヤードを中断して、台の縁に腰を降ろした。 「何がムエタイ九冠王だ。もう少しやれると期待してたんだがな、あれはもうパンチドランカーだろ。全然手応えがなかったぞ。それともお前のケツを掘りすぎたからあんなに弱くなったのか?」  健一はガオグライだけに焦点を絞って向かって行った。ガオグライが目を剥いた。 「なんだお前? 俺とやるってのか」  健一は両腕を顔の真横に上げて拳を強く握った。ガオグライがキューを投げつけて来たが、それは健一の腕に当たって跳ね返り、床で弾けた。  ガオグライは続けて右足を飛ばしてきた。  衝撃――。それを左腕で受け止める。威力は強烈だが怯まない。  左の拳が目の前を掠めた。しかし健一のジャイローンはひたすらにガオグライを睨み続けた。  健一はローキックをガオグライの腿に叩き込んだ。続けて左ジャブを打ち、右フックを放った。ガオグライはそれらを軽くガードして見せてから、強烈な横蹴りを放ってきた。それを健一は腹で受けとめてすぐに右のパンチを打ち返した。  ガオグライがよろけた。それでもガオグライは手を休めず、鋭い肘打ちを振り降ろしてきた。側頭部に衝撃――。しかし健一の度を超えた怒りが全身の神経を麻痺させていた。  ガオグライの膝が二発続けて腹に入る。瞬時に嗚咽感を覚えるが、それすらも怒りの感情が押し戻す。パンチが鼻にあたり、鉄臭い血の味が充満する。さらに左のハイキックが飛んでくる。  健一は右腕で受けてすかさず左のローキックを返した。続けて右のパンチを叩き込む。左、右、左、連打で放つ。ガオグライの顔面だけを狙って打ち続ける。  ガオグライが飛びつくようにして組んできた。腹に膝蹴り、膝蹴り、また膝蹴り――。強烈な吐き気が健一を襲った。それでもガオグライの鼻に狙いを定めて、渾身の頭突きを見舞った。  ガオグライの顔から血が飛び散り、女たちが悲鳴をあげた。離れたガオグライの顔に左右のパンチを連打した。さらに離れたらローキック。そしてまたパンチの連打。執拗にぶん殴る。  ガオグライの顔が腫れていく。目が塞がっていく。唇が切れて、夥しい量の血が流れ出す。健一はさらにパンチを連打した。殴る度、刺すような痛みが拳に走った。恐らく骨にヒビが入っている。それでも健一は全力で殴り続けた。やがてガオグライの身体から力が抜け、その場に崩れていった。  他の男が止めに入る。そいつの鼻に肘打ちを叩き込む。折れた感触――。抑えた男の両手から血が溢れ出す。隣に立っていた男の鳩尾にはミドルキックを入れた。男は無様に腹を押さえて蹲った。視界の左隅で動く男。健一は咄嗟に跳んで膝蹴りを顔面に入れた。男はのけ反って倒れ、そのまま動かなくなった。健一は周りを見渡す。次は誰だ? 誰も動かない。女たちは泣き喚いている。そしてガオグライはぐったりと伸びている。  健一は倒れたままのガオグライの髪の掴み、その首からボーウィのプラクルアンを外した。そしてそれをポケットに仕舞うと、再びガオグライの髪の毛を掴んで、無理矢理上体を引きずり起こした。  ガオグライは完全に意識を失っている。健一は躊躇することなく、その顔面に強烈な右膝を叩き込んだ。ガオグライの鼻の骨が折れて、白い歯が二本、夥しい出血と共に地面にこぼれ落ちた。 ◇  その晩、百合子はタニヤにいた。数日前にケンに連れられて訪れた『バンコクガイド』の編集部はすぐに見つかった。今日もここに来るまでタニヤで働く女性たちの無遠慮な視線に晒されたが、もはや苦にもならなかった。  前回、案内された応接スペースには極端に短いスカートを履いた若いタイ人女性が三人いて、日本人男性二人と談笑していた。  立花は窓際のデスクで電話をしているところだった。そして、すぐに百合子の存在に気付き、慌てて立ち上がった。「どうしたの? ひとり?」  百合子は電話を切って近付いてきた立花の質問には答えず、もう一度、中野電設の人に会わせて欲しい、とお願いした。立花は咄嗟に表情を曇らせた。そして百合子を手招きすると自分のデスクの傍にあった丸椅子を百合子に勧めながら言った。「ケンはどうしたの?」 「彼はもう無理だって。もう見つけることは出来ないって」 「たしか百合子さん、だったよね。……残酷なようだけど、ケンが無理だと言うなら本当に無理なんだと思うよ」 「諦める訳にはいかないんです。だって、ケンにとっては所詮、他人事だから――。でもわたしにとってはこの世で一番大切な人。絶対に諦める訳にはいかないんです」  百合子は必死に頼み込んだ。ケンに見捨てられてしまった以上、自分一人で慎太郎の形跡を見つけ出さなければならないのだ。その為にはどんなに些細な可能性でも見逃したくはなかった。しかし立花は結局、何も教えてくれなかった。 ◇  その夜、『花梨』の厨房で皿洗いをしている最中に、小上がり席で客の相手をしていた敦子に呼ばれた。そこには二人の男性がいた。 「こちら、三和商事(さんわしょうじ)岸田(きしだ)さん。よく来てくれてるから、百合ちゃんも覚えてるでしょ?」  百合子は頷いた。いつもゴルフ帰りに店に寄るよく陽に焼けた男性だった。 「そしてこちらが岸田さんの同僚で、森山(もりやま)さん。森山さんは出張でこっちに来てるの」  三和商事と言えば誰もが知る大手商社だ。森山も岸田も如何にもエリート然とした清潔そうな風貌の三十代男性だった。 「百合ちゃん、あのね――。実は森山さんは以前、タイに駐在していた頃に、慎太郎さんと面識があったそうなの」  百合子は思わず目を見開いた。 「このこと、岸田さんには前からしつこくお願いしていたから、今日はわざわざ連れて来てくれたのよ」  百合子は森山の前に膝をついた。「お願いします。彼のこと話して下さい」    森山はタイ駐在中、慎太郎と同じサービス・アパートメントで暮らしていた。何度か建物内のスポーツ・ジムで顔を合わせたことから親しくなり、互いの部屋を行き来するような付き合いもしていたと言う。 「彼とは自然に打ち解けましたよ。僕もずっとサッカーをやっていたから、体育会系同士ウマがあったのかな。リビングに、あなたと彼のツーショット写真が飾られていたのを今でも覚えてますよ。おまけに携帯電話にプリクラまで貼ってあった」  二人のツーショット写真は休日、横浜港に出掛けた際に携帯電話のカメラで撮影したものだった。百合子は特にその写真が気に入って、慎太郎がタイに行ったあと、わざわざプリントアウトして手紙と一緒に送ったのだ。これを部屋の一番目立つ場所に飾って――、と言付けて。  またプリクラは渋谷で食事をした帰り、十代の子供で溢れるゲームセンターに慎太郎を無理矢理引っ張って行き、そこで撮ったものだ。最初は頑なに嫌がっていた慎太郎も、いつしかプリクラの様々な機能に夢中になり、自分で名前を書き込んだりして、結局百合子以上にはしゃいでいた。 「彼の部屋に行くといつも段ボール箱一杯、レトルトの日本食が送られて来ていたな。慎太郎君は〈タイにも沢山あるから送らなくていいって言ってるんですけど〉と言って笑ってたよ」  即席の味噌汁やレトルトのライス。他にも日本食が恋しくなった時の為にと、沢山の食品を送った。確かに慎太郎は送らなくていいと言っていたけれど、百合子にとっては休日に慎太郎を想いながら買い物をすることが寂しさを紛らわす唯一の手段だったのだ。  森山はそれまで絶やさなかった笑顔をそこで一旦しまい込んだ。 「タイでの任期が終わったら帰国して、すぐに盛大に式をあげると彼は言ってました。きっと大学の野球部仲間が大勢駆けつけるだろうって――。プロに行った連中も絶対に祝ってくれるだろうって、そう楽しそうに話していました」  その時、百合子の視界が揺れ始めた。 「彼女に寂しい思いをさせてしまっているから、帰国したら何よりも妻を大切にする夫になりたいと、そう何度も何度も言っていましたよ」  そこで百合子は歯を食いしばった。そしてまっすぐに森山を見つめた。 「ありがとうございます。彼の気持ちが聞けてすごく嬉しいです。……それで森山さん――、相馬慎太郎は今、どこにいるんですか?」  森山は何も答えなかった。正確には何も答えられなかった。 ◇  チャイナタウン。ワット・チャイモンコン。朝の六時――。健一は境内で待っていた。そしてチャムロンは時間通りに現れた。健一の存在に気付いたチャムロンはそこで一旦立ち止まったが、すぐに無視して朝の礼拝を始めた。  健一はチャムロンの背後に近付いた。「何の為に祈っているんだ?」  チャムロンは質問には答えず、香の束に火を付けて一つ一つ香炉にくべながら一つ一つ懺悔して廻った。  健一は門の外に出た。表には誰もいない。チャムロンは一人で来たようだ。  十分ほどしてチャムロンが出てきた。そして向かい合った瞬間、チャムロンの右足が飛んできたが、目も閉じず、躱しもしなかった。  目の前に革靴の底があった。チャムロンは天才的なバランス感覚を持ち合わせているようだ。蹴った時も、その足を元に戻した今も、身体の他の部分は微動だにしていない。 「本当にお前がガオグライをやったようだな。まったく――、日本人だと思って見くびっていたようだ。それにしてもいい度胸だ。俺の大事な商品を壊してくれたのだから」 「約束を守ってくれ」 「約束――? お前が何をした? 俺はお前が動かなければ直接、ボーウィに話すと言わなかったか? だから約束を守ったのはお前じゃない、ボーウィだ」 「だったらボーウィはいったいどんな条件であの試合を引き受けたんだ?」 チャムロンは黙っていた。どう答えるべきか逡巡しているようだった。 「レックの借金だけで試合をしたわけじゃないんだろう。ボーウィなら必ず、ダオの居場所を教えることも条件にした筈だ」  チャムロンは再び健一を見た。その切れた目尻の傷を見て、右拳に巻かれた包帯を見て、信じられないといったように首を左右に振った。 「本当にガオグライを倒したんだな。しかもお前は一人で相手は五人いたそうじゃないか――。お前、死ぬのが怖くないのか?」 「ああ、怖くない。自分を捨てて生きるくらいならいつでも死んでやる」  チャムロンは黙って健一を見つめた。 「わかった、そうまで言うなら約束を守ろう。明日十二時にチェンライ空港へ行け。そこに迎えの車が来る」 「ただ、チャンライ空港に行けばわかるのか?」 「ああ、迎えの連中にはお前の顔を知らせておく。……行くのはお前一人か?」  そこで健一は逡巡し、すぐに答えを出した。「いや、俺と――、日本人の女、併せて二人だ」 「わかった。明日そこに行けば、お前たちが捜しているダオという女と会わせてやる。ただし条件がある。そこで見たこと、聞いたことは絶対人に話すんじゃない。もし誰かに喋ったらお前だけではない、その日本人の女も、ボーウィも、レムリアのサラも、お前らにペラペラ喋ったノックという女も、そしてスクンビットで日本料理屋をやっている敦子という女とその娘も、全員――、確実に殺す。いいな」
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