38 ๓๘ ダオ

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38 ๓๘ ダオ

 ドンムアン空港からは約一時間半のフライトでチェンライ空港に到着した。今朝、連絡もせず百合子の部屋を訪れると、百合子は不審そうな表情を浮かべたが、ダオの居場所がわかった――、その一言で瞬時に覚悟を決め、それ以上詳しい説明は求めずに素早く支度をして部屋を出てきた。  チェンライ空港は地方の小学校を思わせる二階建ての小さな空港だった。しかしここからラオスやミャンマーに移動する者が多く、その意味では非常に重要なタイ最北端の空港でもあった。  到着ゲートでは、スリヤーと名乗るサングラスをかけた男が二人を待ち構えていた。スリヤーがぶっきらぼうな口調で言った。「携帯電話、持ってるか」  健一は頷いた。スリヤーは帰りまで預かると言う。健一は素直に従い、百合子の分と併せて携帯電話を男に渡した。  案内されたのは空港前に停められた、銀と赤のカラーリングが施されたトヨタ・ランドクルーザーだった。後部ガラスに日本のスキー場のステッカーが貼られている。屋根の上にはスキー板を収納する流線型のケースまで積まれていた。もちろんタイで入手できる類のものではない。それはあきらかな盗難車だった。  運転席の男が降りてきた。腰元に銃のグリップが覗いて見える。よく注意して見ると、スリヤーの腰の辺りも僅かに膨らんで見えた。 「これから案内する。でも場所を知られたくない。目隠しする。いいな」  スリヤーは抑揚のない事務的な口調でそう言った。ドライバーの男が黒い布を取り出して、まず百合子の目を覆うようにして後頭部できつく結んだ。続けて健一も同様に目隠しされ、僅かな明りすら感じられない完全な暗闇に包まれた。 「怖い――」  百合子の右手が健一の左手を掴んだ。健一の左手首に巻かれた祈りの紐、サーイシンと百合子の右手首のそれが触れ合うのを感じた。そのまま二人はスリヤーの声を頼りに後部座席に乗り込むと、車はすぐに走り出した。  目的地までどれくらい時間かかるのかと尋ねた健一に「二時間だ」と平坦な声が返って来た。  健一は百合子に説明し「大丈夫だ、心配ない、何かおかしなことがあっても、必ず俺が守るから」と伝えた。その言葉で百合子は再び健一の左手をきつく握り締めた。  車はいつしか舗装のない荒れた道を進んでいた。相変わらずの暗闇の中、健一は全神経を集中させようと努めた。前の二人は一言も口を利かない。ただ、車の排気音と無神経に鳴らされるクラクションだけが耳に聞こえていた。  気が付くと百合子は眠ってしまったようだ。左肩に頭の重みがあった。健一の左手は強く握られたままだった。  その内、前の二人の様子が慌しくなった。車はブレーキを踏んで減速した。会話から察するにどうやら検問らしい。運転席のウィンドウが開く微かな機械音が聴こえた。喧噪と共に生温い外気が流れ込んで来る。そこでスリヤーが叫んだ。「止まるな、行け、行け!」  閉まりゆく窓の外から「止まれ!」と叫ぶ声が聞こえた。急加速するジープ。後方で乾いた銃声が鳴った。その音で目を覚ました百合子が悲鳴をあげた。健一は百合子を身体ごと腕に抱き、シートに低く隠れ、前の二人に大声で尋ねた。「何があった?」  二人は答えない。ただアクセルを全開にする排気音と、男たちの荒い息使いだけが聞こえていた。  しばらくしてエンジン音が平坦になって、ようやく「もう大丈夫だ」とスリヤーが言った。百合子は健一の腕の中で震えていた。 「もう大丈夫だ。何があったのか分からないけど、とりあえずもう追われてはいないみたいだ。大丈夫だ」  健一は百合子の温もりをその両腕でしっかりと感じていた。車は急坂の多い荒れた山道を進んでいるようだった。酷い揺れに百合子の体調が心配されたが、その呼吸からはまだ車酔いは感じられなかった。  途中で水飛沫をあげて川のような箇所を渡った。そしてまた急坂を幾つか越えた。そのままどれくらい走っただろう。永遠とも感じられる時間が経過したその時、車は急に減速して停まった。助手席の窓が開き、スリヤーが外にいる男に声をかけた。「問題ない。開けてくれ」  すぐに鉄製の重いものが軋む音が聞こえ、車はゆっくりと進み出した。そのまま数十メートルほど進んでから、ハンドブレーキが引かれて車は完全に停止した。 「もういい、目隠しを取れ」とスリヤーの声。  健一は自分で目隠しを剥ぎ取った。途端に目に痛みが刺す。眩しくて何も見えない。それでも手探りで隣の百合子の目隠しも取り外した。 「いいかい、すぐに目を開いちゃダメだ。手で顔を覆って少しずつ光に慣れさせてから。いい?」  百合子は言われた通り両手で自分の顔を覆った。そして「眩しい。何も見えない」と言った。  外から「降りろ」という声がした。健一は足元が見えないまま地面に降りて、途端によろめいた。それでも呼吸を整えて、足元だけを見ながら、車の反対側に回り、降りようとする百合子に手を貸した。  やがて少しずつ視界が開けてくる。そこは四方を山に囲まれた僻地の村。抜けるように青い空とやけに輪郭のハッキリした白い雲が目に入った。気温はバンコクよりもずっと低い。少し肌寒いくらいだ。稜線には背の高い痩せた木が間隔を開けて立ち並んでおり、その少し下に不釣り合いな椰子の群生があった。  土は赤く、乾いていた。広大な山の斜面には、見渡す限り白い花が狂ったように咲き乱れている。そして健一たちのいる広場の十数メートル先に、バラック作りの小屋が何軒か見えた。そのすぐ左手に立派なプレハブ小屋があり、今乗ってきたランド・クルーザーに似たジープタイプの車が三台停まっていた。  遠くの稜線に自動小銃を構えた男が歩いているのが見えた。その数、一人、二人、三人、四人――。それは周囲一帯に憲兵のように配置されていた。厳重な鉄柵と自動小銃を構えた兵士に守られた山奥の村。ここはただの村ではない。健一はスリヤーに尋ねた。「ここはなんなんだ?」  スリヤーはその質問には答えず「黙ってついて来い」とだけ言って、前を歩き出した。しばらく進むと、そこかしこに村人の姿が見えた。彼らは感情のない虚ろな目で健一と百合子を見つめた。彼らの背後には竹で編まれた壁に藁葺きの屋根を乗せた質素なバラック小屋があった。そこに大量の洗濯物が干されて、風に揺れていた。  別のバラック小屋のほうから白い煙がもうもうとあがっていたが、スリヤーに特別慌てる様子もなかったので、きっと村人が料理を作っているだけなのだろう。背の低い囲いの中で鶏が走り回っている。地面に羽の残骸と産み落とされた卵、そして割れて腐った卵も散らばっていた。  その先に大きめの小屋があった。中から子供たちの声が聞こえてくる。隣には屋根付きのムエタイリングがあり、古びたサンドバッグも吊されていた。そこではまだ幼い子供が必死な顔をして練習していた。  そこでスリヤーが話し出した。「俺はこの村の責任者だ。日本人がここに来るの、お前たち初めて。そして最後」  スリヤーの話し方は相変わらず感情がこもっていなかったが、ようやく健一はその理由に気が付いた。スリヤーはタイ語が苦手なのだ。いつかサラに聞いた、タイでもミャンマーでもラオスでもない、どこの政府もその存在を認めない村からダオはやって来たのだと。つまりこの村こそがダオの生まれ故郷なのだろう。つまりダオは故郷に戻って来ているのだ。そして相馬慎太郎も一緒に――。  いや、日本人がここに来るのは初めてだと、たった今スリヤーが言ったばかりではないか。健一は百合子の表情を伺った。今日は朝からあまり話をせず、ここでも不安そうな顔でじっと押し黙ったままだった。  スリヤーは村で一番目立つプレハブ小屋に入っていた。中は薄暗く、床は土が剥き出しのままで、三方の壁一面に椅子が並んでいる。 「ここ、村の集会場」  スリヤーはそう言うと部屋の奥に向かって歩いて行った。真正面の床に中国式の祭壇があった。蝋燭が灯り、線香の残り香が微かに漂っている。スリヤーは祭壇の前に膝をつくと、手前の机の上に重ねて並べられた線香を手に取り、蝋燭に灯してから、小さな香炉にくべた。そして膝を付いたまま両手を蓮の形に合わせ、目を閉じた。  健一は祭壇の脇の壁に貼られた沢山の写真に目を向けた。そこには美しいドレスで着飾った女性たちの写真が何枚か。また褐色の肌と逞しい肉体のムエタイ選手の写真も何枚か貼られていた。中にはベルトを巻いて誇らしげに笑顔を浮かべた写真もあった。  その壁の中央に一枚だけ年代の異なる古い写真があった。兵士のような自動小銃を肩にかけ、並んで笑顔を見せる中国系の顔立ちをした青年が二人。その二人を囲むように同じく中国系の男たちが歯を見せて笑っている。  その片方の青年の面影に記憶の扉が揺さぶられた。途端に汗が額を滴り落ち、心臓が早鐘のように鳴った。チャムロンが何故わざわざ自分に会いに来て、さらに何故リスクを冒してま でこの村に案内してくれたのか、その答えが目の前にあったからだ。 「ケン、大丈夫?」  百合子の声で健一は我に返った。スリヤーは何も言わず、プレハブを出て行くところだった。慌てて健一と百合子もその後を追った。  三人は集落から離れ、裏手の細い道に向かった。そこは鬱蒼とした木が生い茂り、日の当たらない薄暗い山道だった。  しばらく行くとふいに強烈な糞尿の匂いと獣の荒い鼻息が聞こえてきた。それは鉄柵と針金で二重に囲われた豚小屋だった。数頭いる巨大な豚のうちの一頭が、感情のないつぶらな瞳をケンと百合子に交互に向けている。百合子はハンカチで鼻を抑え、辛そうにしていた。 「もし耐えられないなら、戻って車で休んでいたほうがいい」 「大丈夫、平気。気にしないで」  スリヤーはこちらを気にすることもなく豚小屋を通り過ぎて行った。そして豚小屋の先にあった、朽ち果てた物置のような小さなバラック小屋の前で足を止めて、じっとこちらを見た。 「お前たちの捜している女、あの中――」  その瞬間、隣にいる百合子が息を飲んだ。健一が先に小屋に向かうと、先程の豚小屋とは異なる腐臭が漂ってきた。それは死の匂いだった。  背後からスリヤーの声。「話はできるが、あまり近づくな」 「どうして?」 「見ればわかる」  健一よりも先に百合子が小屋に近づいた。扉は開け放たれていたが、その入口には獣の檻のような格子が張り巡らされていて、中に入れないようになっていた。  薄暗い小屋の中を覗くと、不揃いの板切れで作られた粗悪なベッドの上、灰色の汚れたタオルに包まった痩せた女が一人横たわり、その虚ろな目を百合子に向けた。そして次にケンを見て、途端にその目に生気が戻り、みるみる大きく見開かれた。  ずっと捜していたダオは『カリブ・エンターテイメント』のエントランスに飾ってあるパネルの中の美女の面影を完全に失っていた。  それでも健一には今、目の前で死線をさまよっているこの女がダオ本人であることに微塵も疑いを抱かなかった。  呼吸の荒くなったダオは苦しげにタオルをはぎ取った。  その痩せ細った腕や胸もとに赤紫色や黒色のシミが幾つも見えた。  ダオは呻き声をあげ、どうにかしてベッドから這い出ようとしてもがいている。  百合子は口に手をあてて絶句していた。健一は百合子の肩を掴むと、三歩ほど下がらせた。「彼女はエイズだ」 「どういうこと? 慎太郎は? 慎太郎はどこ?」  健一はスリヤーに、日本人の男は一緒じゃなかったのかと尋ねたが、スリヤーは首を横に振るだけだった。 「この女、一年前からいる。もう長くない。この女一人だけ。日本人の男知らない。見たこともない」  その時、ダオがシミの浮き出た骨と皮だけの腕を伸ばして呻いた。「シン――」  その落ち窪んだ目は、かすれゆく記憶の中の人物と同じ日本人男性である健一をじっと見つめていた。「シン、シン――」 「やめて!」思わず百合子は絶叫していた。その甲高い声が遠くの山々にこだまして消えていった。 ◇  結局、この村に相馬慎太郎はいなかった。健一も百合子もダオに辿り着きさえすれば、慎太郎の居場所を突き止められるものと信じて疑わなかった。だからこそ危険を冒して、こんな山奥までやって来たのだ。それなのにまたスタート地点に逆戻りしてしまった。  広大な花畑の向こう、自動小銃を持った兵士が数名歩いている。長閑な田園風景に似つかわしくない戦場の男たち。 「この花、わかるか?」そうスリヤーが尋ねてきた。それは腰から胸までの高さがある白い花。満開のものもあれば、こぶし大の大きさでまだ閉じている蕾も沢山あった。それはワイの源流である蓮の花にもよく似ている。  もちろんケンはその花を知っていた。これまで実物は一度も見たことがなかったけれど、長年タイにいれば自ずとその花の存在を知ることになる。 「ケシだろう?」 「そうだ。この村、工場ある。アヘンからヘロイン作って外へ運ぶ。ここの村民は皆そうやって生きる」  健一は百合子の手を握り締めた。百合子はさっき絶叫してから、ずっと放心状態に陥っていた。  三人が集落の辺りまで戻って来ると建物の向こうからまた子供たちの声が聞こえてきた。健一はスリヤーに尋ねた。「あれは小学校か?」  スリヤーは笑う。「ちょっと違う。女の子供、タイ語と英語学ぶ。男の子供、ムエタイ学ぶ。綺麗な女、強い男、この村出て行く。残り、ずっとこの村でケシ育てる。だからみんな必死」  プレハブ小屋で見た華やかな男女の写真。あれはこの村に育つ子供たちの夢の象徴なのだ。どこの世界でも同じ、努力をすれば必ず幸せになれるという戯言。その希望と、一方で豚小屋のバラックで呻き続けているダオの存在とを彼らはどう理解し、どう折り合いを付けているのだろう。  そこで健一たちの存在を無視するように乳児を背負った中年の女が地面に置いたバケツで洗濯を始めた。乳児は片手を天に突き出してぎゅっと握りしめている。 「ここはガウモンコンのファクトリーだ。とても重要なファクトリー」  スリヤーのその言葉からは自分たちが長年、ガウモンコン帝国を支えてきたという自負が感じられた。 「どうしてそこまで話すんだ?」 「ここもう必要ない。時代変わる。今じゃ衛星写真、みんな映る。この村見つかる。だから必要ない」 「村人はどうなる?」 「知らない。タイ政府は野菜作れ言う。こんな山奥で――。馬鹿にしてる。だから何も変わらない。子供は都会に売られ続ける。結局同じだ」  健一は貧しい山奥の村を見つめた。そしてダオがいる小屋の方角を振り返った。そこには無慈悲なまでに青く澄みきった空があった。きっと夜になれば星がたくさん見えるのだろう。  「ダオ」とはタイ語で「星」を意味した。バンコクで娼婦となったダオは自分の名を星に委ね、遠い故郷を想っていたのかも知れない。  そのダオは今、故郷にいる。生まれ育った村の片隅のみすぼらしい小屋の中で自分の糞尿と吐瀉物にまみれて――。  健一はこの村を恨んだ。それと同時にこの村を作ったガウモンコンを怨んだ。そして生まれて初めて、神を憎んだ。
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