39 ๓๙  襲撃

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39 ๓๙  襲撃

「さあ、もういいだろ、空港まで送る」  そう言ってスリヤーが先を歩き出した。百合子は放心したまま遅れてついてくる。健一は百合子の手を引き、スリヤーの後を追った。  その時、遠くで乾いた音がして、目の前でスリヤーの頭が弾けた。熟れたスイカが割れたような真っ赤な血飛沫と肉片が、辺り一面に飛び散り、後頭部の一部が抉れた肉体が地面に倒れ、すぐにまた別の方角で銃声が鳴り響いた。  思わず大声をあげた健一に呼応するように、再び百合子も絶叫した。「いや――!」  健一は咄嗟に百合子を庇うようにして地面に伏せた。林の中から攻撃してきているようだ。健一は姿勢を低くしたまま百合子の手を引いてプレハブ小屋の影へと走った。  その間に激しい銃撃戦が始まっていた。周囲の壁がバチバチと音を立てて砕け、地面に並べられた陶器が粉々に割れて弾け飛んだ。  どこに潜んでいたのか、数人の自動小銃をもった人間が現れて応戦している。怒声と銃声が山間の村を覆い尽くしていた。  百合子は傍らで耳を抑え、叫び声をあげ続けている。健一は百合子を抱きしめ、背中をさすりながら「大丈夫だ、絶対に大丈夫だ」と繰り返した。  ようやく百合子が落ち着きを取り戻したところで、あらためて辺りを見渡した。ランド・クルーザーは先程の場所に停まっている。健一は百合子に、動かずにここで待つように言って、ランド・クルーザーまで姿勢を低くして走った。  幸い、鍵はついたままだった。健一は運転席に乗り込むとエンジンをかけて百合子のいるプレハブ小屋までバックで下がった。そして窓ガラスを開けて百合子に「乗れ!」と叫んだ。しかし百合子は座ったまま動こうとしない。耳をつんざく銃声と叫び声がまだ響いている。そしてどこかで女の悲鳴も――。  健一は車から飛び降りて百合子を抱きかかえると、強引に後部座席に押し込んだ。「そのまま横になって寝ていて――。絶対に頭を上げちゃだめだ」  そして再び運転席に戻り、アクセルを踏みこんだ。目の前で、顔を真っ赤に染めた男が銃を投げ出して倒れた。遠く斜面の向こうから迷彩服を着た集団が駆け降りて来るのが見えた。健一はなるべく姿勢を低くしてハンドルを握り、村の入口へと向かった。  鉄製の門は破壊されていた。外で何かが待ち伏せているかも知れない。けれど一か八か覚悟を決め、一気に加速して門を突きぬけた。その瞬間、後部ガラスが被弾して割れた。再び百合子が叫び声をあげた。今の銃弾で怪我をしていないか――。しかしそのことを確認している余裕はなかった。何故ならバックミラーの中に、追って来る軍用ジープの姿が見えたからだ。  山道を限界ギリギリのスピードで飛ばした。いつしか百合子の声が泣き声に変わっている。心配ない、大丈夫だ、必ず無事に帰れる――。  ジープはしつこく追ってくる。健一はアクセルを全開にして山道を走った。フロントガラスに無数の枝葉が打ちつけられ、車は何度もバウンドして、上下に揺れた。ジープはバックミラーの中に現れたり消えたりを繰り返し、その内まったく見えなくなった。それでも健一はスピードを緩めずに走り続けた。  次の瞬間、傾斜の緩い登り坂の後で突然車が宙に浮いた。想像以上に長い時間浮遊したあと、そのまま激しく着地して激しくバウンドし、完全にハンドル操作が失われた。車は停まりきれずに前方の繁みに激突した。  健一はハンドルで胸を強打し、激痛に喘いだ。また肋骨が折れたかもしれない。健一はゆっくりと息をはき出すと、また吸い込み、胸の具合を確認した。  大丈夫だ、まだいける――。そして後部座席を振り返った。百合子は横になり、気絶しているようだった。見たところ外傷はなさそうだ。後は天に祈るしかない。健一はバックして山道に戻り、再びアクセルを踏んで走り出した。  前方に幅五メートルほどの茶色い川があった。深さは分からないが、来る時に渡った川と同じだろうと推測し、一気に渡ろうとアクセルを踏んだ。しかし途中でタイヤが窪みにはまり、後方に激しく水飛沫を巻き散らした。  その時、屋根が鉄で叩かれたような音がした。またもや銃弾だ。窓から見上げると斜面の上にジープが停まっており、助手席で銃を構え、こちらを狙う迷彩服姿の男が見えた。  健一は一度バックしてから、今度は慎重にアクセルを踏んだ。銃弾が川面を弾く。いつまた被弾するか、半ば覚悟してアクセルを踏んだ。そしてどうにか無事に川を渡りきり、再び山の斜面を進んだ。  車は度々スリップし、何度もバウンドしながら、全力で走り続けた。やがて道が平坦になり、木々が減って空が広がった。そこで安心したのも束の間、再びバックミラーにジープの姿が見えた。街まではきっとあと少しだ。健一はアクセルを全開にした。  しばらく走ると、見渡す限りの水田が左右に広がる一本道が現れた。農作業用のトラクターがまるで止まっているような速度でゆっくりと進んでいた。健一は畦道にはみ出しながらトラクターを抜き去り、更に対向車線に現れた大型トラックをギリギリで交わして、スピードを緩めずに飛ばした。遠くに民家が数軒見えてきた。大丈夫、逃げ切れる――。  バックミラーのはるか後方にジープの姿がまだあったが、街中に入ればもう手出しは出来ないだろう。健一はそう信じて必死にアクセルを踏んだ。その内、対向車や先行車がぽつりぽつりと増えて来たかと思うと、前方に信号のない交差点が見えた。  健一は目の前のセダンを抜いて、そのまま直進しようと試みた。そこに左から乗り合いトラック(ソンテウ)が突っ込んで来た。健一は咄嗟に避けようとして右にハンドルを切ったが、車高の高いランドクルーザーは曲がりきれずにスリップし、激しい横Gを受けて横転しながら建物の壁に激突して止まった。そこで健一は強く頭を打ちつけ、意識が朦朧としていた。  後部座席に投げ出された百合子の足が見えた。大怪我をさせてしまったかもしれない。必ず守ると約束したのに――。健一は痛む肩を庇いながら姿勢を入れ替えて振り向いた。  そこに百合子の白い手首があった。泥で汚れてしまったサーイシンが巻かれている。健一は自分の手首も見た。同じく血と泥で汚れたサーイシン。健一は百合子の手を強く握りしめた。  薄れていく意識――。遠くで人の叫び声が聞こえた。その声はどんどん近くなってくる。しかし健一の意識は遠く離れて行こうとしていた。そして幾らもしない内に目の前が真っ暗になった。 ◇  午後六時のニュースは今やタイの英雄と化したソンチャイ・プックガパン首相の顔のアップを長すぎる程、延々と映し出していた。血色の良い中国系タイ人。タイで最も裕福な資産家であり、卓越した政治家。そして独裁者――。  ソンチャイ首相はここまで『麻薬撲滅戦争政策』は大成功だとアピールしている。既に麻薬密売人、約千五百人を逮捕し、その際に抵抗した者、約二千八百人をやむなく射殺したとも。 「麻薬組織は国家及び、この国の未来を創る子供たちに深刻な害を与える。だからこそ我々の手で食い止めなければならないのだ。この美しきタイ王国を子供たちの手に取り戻す為に――」  ソンチャイ首相はそう語ったあと、隣でソンチャイに負けず劣らず誇らしげに胸を張っていたタイ警察庁、チナワット・ウンソンタム本部長に視線を移した。  チナワット本部長は今回の死亡者についてこう説明した。死亡者のほとんどは麻薬ギャングであり、その死因についてタイ警察は一切の責任を負っていない。つまり彼ら麻薬ギャングは警察が介入する以前に、情報戦で疑心案偽に駆られ、その結果、麻薬組織同士で互いに殺し合いに発展した可能性がある――、と。 「それでも大小合わせておよそ四十の麻薬組織を壊滅に追いやることに成功した。これは長年に渡る〝密告奨励制度〟の成果でもある」と自らの功績も最大限アピールしてみせた。ソンチャイ首相は作戦の継続をあらためて強調すると共に、これを機にタイ国内からすべての麻薬を一掃すると力強く宣言した。  しかし海外の報道機関は至って冷静で、尚且つ極めて批判的だった。ソンチャイ首相とタイ警察のとった一連の行動はあまりにも非人道的であると非難した。国際法を無視し、実際には組織と関係ない一般人も含め、約六千人もの人々を容赦なく、無差別に殺害したとも報じた。  このセンセーショナルなニュースは瞬く間に全世界に広がって行くことだろう。既に国際人権団体がタイ国政府に対して抗議活動の準備を始めたとも言われている。  やがて世界中の人々が近代史において他に類を見ない、国家政府による大虐殺劇の全貌を知ることになる。そして多くの憤怒と哀れみの声がタイに向けられることとなるだろう。タイは世界中から後ろ指を指され、悪し様に非難されるのだ。  しかしソンチャイ首相は知っている。大衆は常に新鮮な獲物を求めているということを――。嵐はすぐに立ち去る。降りかかる火の粉に耐え、頭を低くしてやり過ごす内に何事もなかったかのように鎮静化してしまうということを、遣り手の企業家であるソンチャイ首相は熟知しているのだ。  無責任で感情的なだけの世論はもはや怪物と化したソンチャイ・プックガパンの野望の前では取るに足らない赤子同然だった。
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