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40 ๔๐ 再会
その日、健一は『チェンライ総合病院』の回廊にいた。
その約三時間前に『フジトラベル』社長の坂崎義郎と『花梨』の桜井敦子が、百合子の父親である笠寺哲夫を連れてやってきた。
六十過ぎに見える丸顔で白髪だらけの父親は健一に向かって何度も詫び、悲痛な表情で深々と頭を下げた。
坂崎とは年末に会ったきりだったのでおよそ三カ月ぶりの対面だった。ムエタイの現役時代、何度も心が折れそうになった健一を励まし、支えてくれたのはこの坂崎だった。
「ケン、すまなかった。俺が軽率だった。お前には本当に迷惑をかけた。この通りだ」
「いいえ、俺も勝手に暴走しましたから――。社長は何も気にしないでください」
「いや――。ところでお前の怪我は大丈夫なのか?」
「ええ、たいしたことないです。ムエタイの試合に比べたら、これくらいなんてこと」
健一は額の縫い傷に手を当てた。幸い事故の状況からは信じられないほど軽症で済んだと言う。坂崎は包帯の巻かれた健一の右の拳を心配そうに見つめていたが、これは事故とはなんの関係もない怪我だ。
二日前、チェンライの田舎町で健一と百合子の乗った車が大破した。同時にソンテウとセダンも追突し、交差点には少数ながら近所の野次馬が集まった。
だから助かったのだ――。そうでなければ、ジープの連中に殺されていただろう。今、思い返しても本当にギリギリの状況だった。
「彼女の治療費は全部うちで持つことにした。外国人だと思って特別豪勢な個室に入れられてるからな。……しかしこんな話だったとは思いもよらなかったよ。まったくな――」
一時間後、父親と敦子が百合子の車椅子を押して現れた。点滴が終わったようだ。百合子は脳震盪を起こして意識を失っていたものの、全身に幾つか見られた打撲以外に大きな外傷はなかったと言う。それはまさしく不幸中の幸いだった。
車椅子に乗った百合子は健一をじっと見つめていた。どうしても逢いたいと言って聞かないのだと、傍らの敦子が哀しげな表情で呟いた。
百合子は車椅子から立ち上がると、父親が制止するのも聞かず、ふらつく足で健一の傍まで駆け寄ってきた。そして健一に抱きつき、唇を強く押しつけた。
愛してるわ。愛してるの。もうどこにも行かないで。
ずっとわたしのそばにいて――。
健一は百合子を抱きしめながら天を仰いだ。そしてついさっき聞いた父親の告白を思い返していた。
◇
病室のベッドで眠り続ける百合子――。
父親は娘の手を握り締め、その柔らかな髪の毛を撫でながら話し出した。
この娘が十四歳の時に病気で母親を亡くしましてね。
この娘は子供の頃から気が強くて、母親の葬儀でも涙一つ流しませんでした。しっかりと気丈に振る舞っていたんです。きっと泣き崩れてばかりいた父親の私を気遣ってくれていたんでしょう。
それからもこの娘はたいした我儘も言わず、面倒もかけず、親の私が言うのもなんですが、本当に良い子に育ってくれました。当時、私は小さな運送業を自分で始めたばかりだったものですから、あまり構ってもやれなくて――。今思えば寂しい思いをさせていたんだろうと思います。
その後、百合子は短大を出て、就職して、何年もしない内に相馬慎太郎君を家に連れて来ました。彼は明大野球部のレギュラーだったのよって――。私が野球観戦くらいしか趣味がないもんですから、百合子は最初にそう言って紹介したんです。
私が気に入ろうと気に入るまいと、そんなこと関係ないのに。百合子が好いて一緒になろうという相手を、私は否定したりしません。そんな権利もありません。それなのにこの娘は――。
慎太郎君がタイに二年間の転勤になると決まって正式にプロポーズを受けたと、帰国したら入籍するんだと聞いて私は本当に嬉しかった。百合子も実に幸せそうでした。
父親はそこまで話して、少し躊躇う素振りを見せたが、やがて唇を噛みしめて小さく頷いた。
慎太郎君が自殺したのは今から二年前です。
彼は二年間のタイ勤務を終える直前に退職して帰国しました。
あとでわかったことですが、彼はエイズに感染していたそうです。それを苦にしての自殺でした。
ええ、百合子の受けたショックは計り知れません。相当なものでした。程なくして百合子は精神病院に入院しました。
統合失調症と記憶障害――。それに拒食症も併発しておりました。一年間、入退院を繰り返しまして、ようやく安定してきたので昨年からは自宅療養を続けていたんです。
私も会社をある程度人に任せるようにして、できるだけ一緒に過ごしました。そのおかげで特にこの半年は随分落ち着いておりましてね――。私は完全に治ったものと思いこんでいたんです。
ある日、百合子は旅行に行きたいと言い出しました。高校時代からの親友が札幌に嫁いでいたものですから、そこに遊びに行ってみたいのだと。だから、まさかタイに来ていたとは思いもよらなかった。
ですから皆さんには本当にご迷惑をお掛けしてしまって、どうお詫びしてよいものやら。本当に、本当に申し訳ありませんでした。
◇
百合子の両手は逞しいその背中を弄っていた。
抱きしめても、抱きしめても、まだ抱きしめ足りないと言うように。
百合子は最愛の男の腕の中で、至上の喜びを感じていた。
手首に巻かれたサーイシンの祈りが天に届いたのだ。
ずっと待ち焦がれていた再会の瞬間――。
慎太郎の厚い胸板、温もり、吐息――。
百合子の耳はその鼓動をハッキリと聞きとっていた。
慎太郎はわたしを置いて行ったりしなかった。
一人ぼっちにはしなかった。
ああ、もっと強く抱きしめて。もっと強く。
永遠にずっと――。
ずっとそばにいて――。
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