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41 ๔๑ 赦し
数日ぶりに戻ったバンコクは予想通り酷暑に見舞われていた。
ドンムアン空港の国内線ターミナルから国際線ターミナルまで続く無機質で長く平坦な通路を、百合子の父親が車椅子を押して進み、坂崎と敦子、そして健一の三人はその後に続いた。
百合子と父親は今から三時間後の便で帰国する。百合子の体調はすっかり回復し、傍目には健康そのものに見えた。けれどその目は何も見ていなかった。
去り際、百合子の父親はあらためて詫びた。何度も何度もその白髪の多い頭を下げ続けた。しかし車椅子に乗った百合子の表情からは、相変わらずなにも読み取れない。
最後にもう一度だけ父親は頭を下げると、百合子の車椅子を押して背中を向けた。
敦子は涙を堪え、坂崎は重苦しい表情のまま二人を見送った。
健一は百合子を正視することが出来ず、傷ついた自分の拳をじっと見つめた。そこでふと気が付いた。手首にあった筈のサーイシンがなくなっていたのだ。
その瞬間、健一は走っていた。そして出国ゲートの壁の向こうに消える寸前の百合子の前に立ちはだかるとその前に跪き、細い右手首を掴んだ。
百合子のサーイシンはまだ残っていた。汚れて薄茶色に変色したサーイシンがまだそこにあった。けれど健一が強引に手首を掴んだ反動で呆気なく外れてしまった。
百合子の目はゆっくりと落ちていく細い糸のようなサーイシンにじっと注がれていた。
床に落ちたそれは誰かが引いていったキャリーケースの風に煽られて、二度ふわりと浮いてからそこに留まった。そしてただの糸屑と化した。
百合子は顔をあげ、目の前にいるケンをじっと見つめた。
それはこの異国の地で出会い、数日間を共に過ごした新しい友人――。
百合子は胸の前でワイをして、ゆっくりと頭を下げた。そして顔をあげると、穏やかな表情で微笑んだ。
誰よりも愛した。
誰よりも強く、愛した。
だから、泣かないと決めた。
慎太郎が哀しむから、わたしは絶対に泣かないと決めた。
十四歳の時だってそう――。母の葬儀でわたしは泣かなかった。
ひとり取り残された父の為に意地でも泣かなかった。
わたしが泣けばそのせいで父がもっと哀しむと知っていたから、だからわたしは絶対に泣かなかった。
今度だってそうやってうまく乗り越えられると信じていた。
わたしは相馬慎太郎を失っても強く生きていけると信じていた。
もういいよ――。
誰かがそう言ってくれる日がいつかきっと来る。
もう充分頑張った、もういいんだよ、と誰かがそう言って、抱きしめてくれる日がいつか。
百合子よく頑張った。百合子もう心配ない。
百合子――。
百合子――。
だから泣いた。声をあげて泣いた。
とめどなく涙が溢れ、長い間、堰止めていた涙がどんどんどんどん溢れてきた。
顔が醜く歪み、鼻水は止まらず、繰り返す嗚咽で呼吸が出来なくなるほど涙が溢れた。
百合子は人目もはばからず大声をあげ、ヒステリックに体を揺らし、車椅子から転げ落ちて、冷たいリノリウムの床にはいつくばり、両の手は宙をさまよい、聞き訳のない子供のように声を上げて泣いた。
そうやってみっともないくらい、いつまでも泣き続けた。
百合子の父は耐えきれず、その場に膝をついて嗚咽をあげた。
敦子もまた、坂崎の胸に顔をうずめて咽び泣いた。
健一は泣きじゃくる百合子を抱き起こすと、折れてしまいそうなほど強く抱きしめた。
百合子はケンに抱きしめられながら、もっと、ずっと、大きな声をあげて泣いた。いつまでも、いつまでも――。
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