42人が本棚に入れています
本棚に追加
第一章 ミミサキ市の誘拐犯
聞こえる人間と、聞こえない人間がいるらしい。
電灯をはじめとする、電気製品全般がたてるノイズの話だ。
俺は聞こえる側の人間だ。ネオン管の切れかかった看板が、頭上で不定期に明滅しているのが、目にも耳にもさわる。
軽く伸びをすると、腰がパキリと小さく音をたてた。さすがに長時間座りすぎだ。
「好きな奴、押して良いぞ」
煙草を咥えた上司に促され、暗がりの中、光りはじめた自動販売機の前に立った。
悩むことなく下段中央のボタンを押すと、ガコンと音をたてて、お目当ての缶が落ちてくる。取り出し口から拾い上げ、ガードレールの側まで向かうと軽く凭れかかる。
中身の温度の割に熱々なスチール缶をハンカチに包み込み、タブに爪を立て、押し開ける。缶の縁が唇に当たる熱さもまた良い。
缶を傾け、出てきた甘いコーヒーをちびりと味わう。口腔から鼻に抜ける独特の香ばしい薫りが強く、微かな苦味に混ざる甘さが際立つ。人から奢ってもらった缶コーヒーは、なぜこんなにうまいのか。
俺が満足げに息を漏らすと、隣で煙を燻らせはじめた上司が、低く笑い声を漏らした。
彼はパチンと金属でできたライターの蓋を閉める。その細かな傷が入った鉛色の表面には、円の中にさらに小さな五つの円を、花弁のように並べた文様が彫ってある。
「毎回思うが、たった一二〇イェロの缶コーヒーを、そんなに美味そうに飲む奴はお前くらいだよ」
その台詞は実に心外だ。
「シンさんがよく、朝に買ってくるコーヒーがいくらか、わかってます?」
問いかけると、上司ことシンさんは片眉を上げる。そうすると、最近深くなってきた額の皺がよりいっそう目立った。
「あ? 四〇〇イェロくらいだろう」
「四二〇イェロです。この缶コーヒーで済ましていたら、三〇〇イェロも浮くんですよ」
ビルの間を抜けていく冷たい風に吹かれていると、缶コーヒーの温度がどんどん下がっていく。それでも疲れた体に染みていく甘みが貴重で、少しずつ大切に摂取していた。
「いや、店で買うのと、缶コーヒーとは全くの別モンだろうが」
「何が違います?」
「何もかもだよ。味とか、薫りとか……深みとかよ」
当然だろ、とでも言わんばかりの様子を、俺は鼻で笑った。コーヒーを好んで飲み、豆や、販売店のブランドにこだわる人間は多いが、本当にその味の違いがわかっている者など、ほんの一握りだろう。
「コーヒーはコーヒーですよ。俺はこの缶コーヒーを飲みながら、四二〇イェロも得したなって思っている方が、よっぽど幸せです」
「浮くのは三〇〇イェロじゃなかったか?」
シンさんは指の間に挟んだ細い煙草を揺らし、鼻から煙を出しながら他愛ない会話を続ける。寒空の下、彼は煙草を味わいたいだけで、他にすることはない。くだらない会話でもしていないよりはマシだ。
「俺はこれをシンさんに奢ってもらったんだから、四二〇イェロのおトクですよ。さらに無駄にお上品な喫茶店で飲んだって考えたら、一〇〇〇イェロくらいおトクです」
最初のコメントを投稿しよう!