第一章 ミミサキ市の誘拐犯

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 先日、キャバクラ『ヘブンズエンジェル』で指名手配犯らしき男が目撃されたという情報提供があり、俺とシンさんは連日、首都デンメラにある繁華街で張り込みをしていた。  キャバクラが見える横道の傍らに車を停め、延々と店に出入りする人間を観察し続ける。この任務は退屈極まりないが、気も抜けない。何せその目撃された指名手配犯というのが、過去に何度も強盗殺人を犯している一級の重罪犯なのだ。  キャバクラが閉店時間を迎えたら張り込みも終わりになるのだが、その後本庁に戻る前に、シンさんはいつも煙草を吸いたがる。  シンさん曰く、昔は本庁のどこでも吸えたという煙草だが、最近では喫煙スペースさえ撤去された。シンさんの家では第一子が生まれた七年以上前から喫煙が禁止されており、張り込みに使用する覆面パトカーも禁煙が厳命されているため、煙草を吸えるのがこのタイミングしかない。  長時間にわたる張り込みの後、さらに煙草休憩につきあわせる礼ということで、口が悪くも優しい上司は、毎日こうして缶コーヒーを奢ってくれるのだ。 「こだわって淹れた本物のコーヒーを飲んだら、あまりのうまさに、もうそんなモン飲めなくなるぞ」  からかいの混じった言葉に、俺は再び鼻で笑う。 「安いコーヒーが飲めなくなるのなら『本物のコーヒー』なんて、飲みたくもありませんね。コーヒーに限らず生活レベル全般そうですが、一回上げたら戻せなくなるに決まっているんですから、上げないで保っている方が良いに決まっていません? そうしたらずっと低いレベルで満足できるんですよ」  籠の中の鳥は、籠の中しか知らないからこそ幸せなんだ。そんな、缶コーヒーから始まった、くだらない議論における俺の結論に、上司もいよいよ呆れ顔だ。 「お前は本当にケチくさいな。いくら刑事一年目だからって、キャリア組なんだからいい給料もらってんだろ。何なら俺より良いんじゃねぇのか?」 「いやだな。そんな、長年第一線で刑事をやってらっしゃるシンさんより、俺の方が給料いい訳ないじゃないですか」  今後奢ってもらえなくなる気配を感じて、すかさず予防線を張る。  警察という組織は一つの階級制度で成り立っているが、実は大きく分けて二つの人種が存在する。一つは難関の国家公務員試験を突破したキャリア組。もう一つが、地方公務員試験で採用されたノンキャリア組だ。  俺はキャリア組。シンさんは、ノンキャリア組の中から自力で実績を積み上げ、本庁勤務にまでのし上がってきた、叩き上げの刑事だ。  シンさんが俺の上司なのは紛れもない事実だが、おそらく給料も俺の方が良い。  しかし、俺が金に拘る理由は、そんなところにはない。確かにお坊ちゃんお嬢ちゃんの多いキャリア組とはいえ、そこに至るまでの人生など、人様々なのだから。  飲みきってしまった缶コーヒーの最後の一滴まで啜り、自動販売機横のゴミ箱へと歩いて行った。  専用の丸い穴に空き缶を入れる。  そろそろシンさんの煙草タイムも終わる頃だ。帰ったら暖かいシャワーを浴びて、さっさとベッドに潜り込もう。  俺の中では最高に幸せな予定を組みながら、何となしに振り向いた時。ヘブンズエンジェルの側面の路地裏が視界に入った。
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