第一章 ミミサキ市の誘拐犯

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「今年で一〇年目だから、今までで九回の誘拐を成功させている。ミミサキ市って知ってるか?」 「行ったことはありませんが、確かナンショウ地方の市ですよね」  俺の返事にシンさんは頷く。 「海辺のド田舎なんだが、気候の良さを活かして高級リゾート地になっててな、住んでいるのは大体が金持ちばっかりの市だよ。そんな奴らにとって、一〇〇〇万イェロなんて端金に過ぎないってことさ。子供が無事に帰ってきたら、文句は言わねぇよ」 「市民を守る警察が、そんなことでいいんですか」  話を聞けば聞くほど腹が立ってきた。俺は詰問口調で続けるが、上司は変わらずのんびりとしている。シンさんも普段は穏やかな人柄だが、叩き上げらしく、仕事には熱い方の刑事だ。そんな彼が、ここまで犯罪に興味がなさそうなのも珍しい。 「人質が無事に帰ってくるんだよ。今までその誘拐犯が、人質を傷つけたことは一度もないんだ」 「物の貸し借りじゃないんですから、帰ってくればいいってものではないでしょう」 「誘拐が始まってから三年位までは、そりゃあまともに捜査が行われていてな、初年度なんかは、身代金要求に応じず、二ヶ月くらい監禁されていたこともあった。ただ、その時も人質は健康そのもので帰ってきた」 「いくら体が健康だからって、二ヶ月間も誘拐犯に監禁されていたら、心的被害は相当のものだったのでは?」  身の危険を感じながら、長期間犯罪者に拘束され続ける苦痛を想う。幼い被害者の気持ちを考えれば、胸が詰まった。家にも帰れず、どれだけ怖かったことだろう。  しかしそれにも、シンさんは首を振った。 「精神鑑定もされたが、健全そのものだったらしいぞ。帰ってきた子達は、何不自由無い生活を送っていた、と皆が口を揃えて言うんだ。それに加え、犯人の顔は見ていない、監禁されていた場所もわからない、と」 「そんなこと、ありえます?」  上司は軽い調子で肩をすくめる。 「それが、あるんだから仕方ねぇだろう。そんな事件だから、ミミサキ市の誘拐犯は、今や都市伝説みたいになってるんだよ。やりがいもなければ、犯人を捕まえようもない。行くだけ、犯人を捕まえられなかったという汚点がつく。本庁の誰も捜査指揮に行きたがらないから、去年も今年も本庁は不介入だと」  そんな会話をしている内に、本庁へと到着した。聳え立つような近代的なビルだ。車を入り口前につけると、そこで待ち構えていた制服の警官二人が背筋を伸ばし、ビシッと敬礼をした。もう夜中の二時をまわっているというのに、元気なことだ。  車を下りると、俺もシンさんも敬礼を返す。 「お疲れ様です!」 「指名手配犯のニル・フハダは後部座席だ。後は頼むな」 「かしこまりました!」  シンさんが声をかけると、警官二人は、さっそく男を留置場へ連れて行く作業へと、とりかかり始めた。鍵をつけたままの車もその場に残し、俺とシンさんは共に本庁の中へと入っていく。先程まで乗っていた覆面パトカーも、当然のことだが警視庁の所有物であり、片付けはあの二人がやってくれる。  俺達がここから家へ帰るには、公共交通機関を利用する必要がある。電車は走っていない時間なので、タクシーだ。 「あー、眠っみぃなー……」  すでに照明の消えていた捜査一課のオフィスに戻る。灯りをつけ、彼自身のデスクにコートを置いて腰かけながら、シンさんがぼやいた。業務時間内であっても、大半の人員が捜査に出ているために人の少ないオフィスは、今は俺たち以外に誰もいない。 「シンさん、拳銃戻さないといけませんよ」  俺はデスクへつく前に、まっすぐ拳銃をしまうロッカーへと向かった。ヤマ国では一般的に、拳銃の所持は禁止されている。警察官は勤務中のみ拳銃の携帯が許されているが、帰宅時に持って帰る訳にはいかない。  退勤時には、厳重に管理された専用のロッカーへ返却する必要があるのだ。ジャケットの内側に着込んでいたホルスターを外す。そのまま丁重にロッカーの中へしまうと、警察手帳に付属しているIDで施錠する。 「おー、俺は今日、このまま残って仕事しとくわ」  シンさんの言葉に、俺は振り向いた。 「帰らないんですか?」 「今から帰ってもなあ。報告書も明日書く羽目になるから、今晩中にやっとくわ。お前は任せて帰っていいぞ」  確かにシンさんの家は遠い。近くのボロアパートで一人暮らしをしている俺と違って、彼は郊外に一軒家を構えている。 「そんなこと言われたら、俺は容赦なく帰りますよ」  俺の脅すような言葉に、シンさんは笑いながら、火のつけていない煙草を口に咥えだした。そんなおしゃぶりのように咥えるくらいなら、いい加減やめれば良いのにとは思うが言わないでおく。そういう小言はさんざん奥さんから聞いているだろう。 「だから帰っていいって言ってんだろうが」  これは冗談ではなさそうだと察し、言葉に甘えて帰り支度をはじめる。が、先程聞いた事件のことが気になって、俺は鞄を肩にかけながらシンさんの隣に立っていた。 「どうした?」  書類を取り出し、作業に取り掛かり始めたシンさんが俺を見上げる。 「さっきの、ミミサキ市の誘拐犯の話なんですけど」 「おう」  その時、俺は腹の奥から立ち上がってくるようなやる気を感じていた。 「俺を担当にしてください。必ず犯人を捕まえてみせます」  奇妙な事件の先に何が待っているのか、この時の俺には、知る由もなかったのだ。
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