第01話 光の国から正義のために・前編

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第01話 光の国から正義のために・前編

7b444bab-5d21-4264-b152-407bc36f40ff  まだ四月だというのに、まるで真夏のような空模様だった。  連なる緑の山々に囲まれたしがない地方都市・王羅市(おうらし)の頭上には、季節外れの積乱雲を抱えた青空がいっぱいに広がっている。それ自体が田舎扱いされることも多い王羅市の中でも、ここは特に外れのほうに位置していた。  小さな山を背に、サッカーコート何面分もの敷地に広がる、平たく均等にならされた白い砂のフィールド。木製の柵で複数に区切られたその内側では、大小様々な馬が気持ち良さげにパカパカと蹄の音を響かせていた。  馬術倶楽部(ばじゅつくらぶ)・ゲンドー会。  地元では有名なその施設の一角に、蓮河信二郎の姿はあった。 「ハァ……」  ブリティッシュ馬術の正装である黒い燕尾服(えんびふく)に身を包み、毛並みの美しい白馬に騎乗した信二郎は、控えめに言っても非常によく様になっていた。  しかしどうした訳か、本人はこの世の終わりのような暗い表情を隠そうともしない。 「死にたい……」  高校生の若々しさとはかけ離れた、人生に疲れ切った者の顔色。  生来の整った顔立ちや、愛馬と織りなす視覚的コントラストなど、あらゆる良い面を彼自身の表情と言動が打ち消しかねない状態であった。 「蓮河くーん!」  突如として信二郎のもとに届く、場違いなほど柔らかな声。  信二郎が顔を上げると、施設入り口付近から馬場の柵に沿ってこちらに走ってくる、同い年ぐらいの眼鏡をかけた少女が見えた。  その姿を視界に捉えた途端、信二郎の胸の奥が僅かながらトクンと波打つ。  灰色だった世界に、少しだけだが色彩が戻ったような錯覚に陥る。 「牧奈……」 「おはようっ、蓮河くん! 今日も朝から暗い顔しちゃってるねぇ」 「ほっといてくれよ。無闇に来るなって、あれ程言ってるのに……」 「えへへ、ごめん。もう来ちゃった♪」  小走りで現れた少女は、柵越しではあるが信二郎の乗った馬のすぐ傍に来て立ち止まると、両手を後ろに組んではにかみ、栗色のストレートロングを揺らしてこちらを真っ直ぐに見上げてきた。  反対に、信二郎は少女の顔を正視できず、微かに視線を逸らして黙り込んだ。  その笑顔を見ていると、信二郎は嬉しい様な苦しい様な、複雑な気分になってしまう。どんな顔をしていいのか分からず、目を合わせられなくなるのだ。  牧奈千手(まきなせんじゅ)。それが少女の名前であった。 「よしよし、アローワン……良い子にしてた?」 「ぶるるるっ」  千手が手を伸ばして触れようとすると、信二郎の愛馬アローワン号は率先してその顔をすり寄せ、甘えたような態度を取ろうとする。非常に懐いているのだ。  今日の千手は、涼しげなワンピースにサンダル、おまけに明るいカーディガン姿。  いつも学校で見るブレザー姿と違って、とても開放的で可愛げだった。  またアローワン号が鼻先を押し付ける度、薄手のワンピース越しに標準より大きめな女性の象徴がクッキリと浮かび上がって、周囲にその豊かさを見せつける。  一瞬、それに視線を取られかけたのに気付いた信二郎は、慌てて明後日の方向に顔を背けると、誤魔化すようにぶっきらぼうな口調で言った。 「……今日は、なんか用なの?」 「うーん、特にないかな。何となく蓮河くんとかアローワンに、朝から会いたいなって思っただけ。……駄目?」 「よりによってこんな日に来なくても」  言いつつ、信二郎は同じ馬場の少し離れた場所に集合した、とある人々を見やった。  彼らの繰り広げる光景こそ、信二郎が終始憂鬱を抑えきれない原因であった。 「「「――――ビバ・ゲンドー!!」」」  何の前触れもなしに馬場に轟く、珍妙極まりない大合唱。  十名ほどの男女がひと固まりになって、そんな訳の分からない単語を口にしていた。  男女といっても、実際は八割がたが女性だ。  揃って右手を真っ直ぐ掲げる光景は、まるで選手宣誓のようでもある。 「……馬との合一はすなわち神々との合一です!」  先頭に立つ主婦然とした女性が、残り全員を見渡すようにして演説を始めた。 「彼らは我々、不完全な人間の素晴らしき導き手です。相応の敬意を以て望まねばなりません。彼らと歩むことは精神の修練であるのと同時に、神に向かって歩む道に他なりません! そしてその終着点にいるお方こそ、我らが偉大なるオーナー・玄道さま!」 「「「ビバ・ゲンドー!!」」」  繰り返される合言葉。  そして玄道という男の名前が出た途端、人々の目の色が変わった。  特にその大半を占める女性たちは、老若問わず明らかな「女の顔」を垣間見せる。  それを確認しつつ、先頭のおばさんは満足げな様子で話を続けた。 「いいですか皆さん、軽薄な動機で馬に接してはいけません……私は皆さんが、真剣にこの腐れ切った世界の救済を願う人々であると、そう信じているのです。皆さんの一人ひとりが馬と真剣な気持ちで向き合うことによって、俗世の欲に塗れた汚れた心を洗い流し、やがては精神のステージを……」 「――――ちょっと、ちょっと!」  信二郎はいよいよ堪え切れなくなり、無駄と知りつつ首を突っ込んでしまった。  信二郎としては極力無視しようと努めていたが、次第に我慢が出来なくなったのだ。  露骨なぐらい顔をしかめているハズの信二郎だったが、彼を振り返った人々は演説中である女性含め、皆一様に息を呑み感激した顔を晒していた。 「ああっ、若様! ビバ・ゲンドー!」 「若様はやめてったら。それよりも、さっきから話聞いてたけど、いくら何でも仰々し過ぎるんじゃないの?」 「は……?」  狐につままれたような顔をする女性に、信二郎はため息を禁じ得ない。 「馬と接するのにそこまで身構えなくても……真剣に向き合えっていうのは分かるよ。けど一番大切なのは、こいつらを本当に好きになって貰うことじゃないか。ガチガチにしたら本末転倒だよ」 「お、仰る通りです。見識不足でした、若様!」 「だから若様はやめろってば」 「みなさん、よーく覚えておいてくださいね!」  信二郎から苦言を呈された女性は、ところが奇妙なほどに声を上ずらせ、何処となく興奮気味に信二郎を指し示して言った。 「我々への愛に満ちた、若様の温かいお言葉を! さすがは偉大なオーナーのご子息、いずれゲンドー会の全てを受け継がれる神聖な血筋の持ち主であらせられます!」 「だから若様って……」 「ビバ・ゲンドーッ!!」  腹の底から絶叫する女性。それに合わせて、他の人々も一斉に声を張り上げた。 「「「ビバ・ゲンドーッ! ビバ・ゲンドーッ!」」」 「呼ぶなって……ああもうっ! 聞けよ、人の話!」  尚も説得を試みた信二郎だが、程なくしてこれは無理であると判断。  乗っていた愛馬に合図して、半ば逃げるようにその場から退散した。  しかし離れても離れても、「ビバ・ゲンドー」の大合唱は追いかけてきた。  馬場のすぐ近くに見える、本部会館にあたる大きな建物の周囲には、今もなお多くの人影がある。馬に乗る者、自分で歩く者と様態こそ様々だが、表情に限ればその殆どが一様に、口角を不自然に釣り上げた画一的な微笑みを浮かべていた。  老いも若きも男も女も関係なく、誰もが揃って似たり寄ったりな顔ばかり。人工的な空気さえ醸し出すそれらは、率直に言って非常に胡散臭く不気味なものだった。  毎度見慣れた光景とはいえ、信二郎は改めて深々とため息を吐く。 「ホンット、死んじゃいたいよ……」 「あはは……いつもながら大変だねぇ……蓮河くん……」  千手も思わず苦笑いを浮かべる始末。  彼女とて、信二郎の事情は把握しているのだ。 「……昨日の夜、湖のほうに流れ星が落ちたのは知ってる?」 「うん、私も見たよ流れ星。赤と青の光が、とっても綺麗だったなぁ……。蓮河くんと一緒に見られたら、本当はもっと嬉しかったんだけど」 「真面目に聞いてよ、牧奈。その所為で昨日から大変だったんだ。ウチの連中はやれ、ハルマゲドンの予兆だ、世界の終わりだって大騒ぎするし。信者をもっと増やさなきゃとか、いつものバカ騒ぎ始めるし……勘弁してほしいよ……」  馬術倶楽部・ゲンドー会。  信二郎の生家であるこの団体は、表向きは乗馬クラブとしての体裁をとっているが、その内実は信二郎の父・蓮河玄道(はすかわげんどう)を指導者として崇拝する新興宗教団体、それもいわゆるカルト教団と見做される性質をもった危険集団であった。  会員数、つまり信者数は王羅市の内外に約一〇〇〇名前後。しかもそのうち一〇〇名前後はこの教団本部内で寝起きし日常を過ごす、事実上の出家信者だ。  なぜ乗馬クラブが宗教に、と思う者もいるだろうが左程不思議なことではない。  過去にはヨガ道場や農業団体がカルト団体へと発展し、場合によっては大きな事件に発展したケースも存在する。崇拝対象となるものが存在し支持者が集まれば、あらゆるコミュニティーは宗教的性質を帯び得るのだ。  しかもこの場合、崇拝対象とは乗馬クラブのオーナーである、信二郎の父であった。 「……ここは底辺の吹き溜まりみたいな場所だよ」  信二郎は吐き捨てるように、誰憚ることなくそう言ってのけた。  言葉は悪いが、それが信二郎の嘘偽りない感想なのだ。 「牧奈……キミみたいにちゃんとした家の女の子が、無闇に出入りしていいような場所じゃないんだ。もし変なウワサでも立ったら、どうするつもりなのさ」 「別に私、気にしないよ?」 「ボクが気にするんだよ!」  信二郎は目を逸らしたまま。思わずムキになってそう言った。 「ボクと……ボクなんかと違ってキミは、ちゃんとしたお寺の、由緒ある家の生まれなんだ……この町で一番のね。そんなキミの人生を台無しにしたくはないんだ。だから!」 「……蓮河くん、もしかして」  千手が急に悲しげな声を漏らす。  驚いて信二郎が千手のほうを見ると、彼女はいつの間にか信二郎に背を向け、えらく落ち込んだように顔を伏せていた。 「もしかして、私のこと嫌い……?」 「急に何言ってんのさ!?」 「だって、私が会いに来ると迷惑みたいだから」 「いやいやいや、馬鹿なこと言わないでよ!」  もしや傷つけてしまったかと思い、信二郎は即座に馬上から飛び降りると千手がいる柵の近くまで駆け寄り、分かって貰おうと懸命に身を乗り出した。 「牧奈が来てくれるのは嬉しい! 凄く嬉しいよ! だけどキミだって知ってるだろ。ウチの連中はまともじゃない……中には、キミがボクと親しくするのを見て『邪教徒の陰謀』なんて言う奴もいるんだよ? 今はまだ大丈夫でも、キミの身に万が一のことがあったらどうするのさ!」 「……優しいね、蓮河くんは」  そう言って千手が顔を上げると、もう落ち込んだ顔はしていなかった。  どうやら少々大げさに振舞っていただけらしい。代わりに、微妙に拗ねたような表情と口ぶりが気になったが、信二郎はとりあえずひと安心する。 「でも大丈夫だよ……蓮河くんこそ知ってるでしょ? 私これでも合気道習ってたし、もし危ない人が近づいて来たら、その時は腕を捕まえてとりゃーっ、て」 「それ小学生の時の話でしょ、しかも四年生より前にやめたって言ってたし!」 「わあ、嬉しいな。蓮河くん、前に話したの覚えててくれたんだ。えへへ……」 「ああもう、真面目に聞いてってば。どうしてそう無駄に肝ばっか座ってるのさ!」  千手のためにと、それでも懸命に説得を試みる信二郎。  すると今まで冗談半分だった千手が、一転して真面目な顔になった。 「……やせ我慢の割に、嘘つくのが下手だよね蓮河くんって」 「なんだって!?」 「私、分かってるから。無理矢理ひとりぼっちになろうとしてるけど……そんなことになったら蓮河くん、きっと寂しすぎて本当に死んじゃうよ? 私、蓮河くんにそんな風に絶対なってほしくないもん」 「ぐうっ……!」  図星を突かれて、たちどころに赤面する信二郎。  千手の優しげな眼差しは、しかし的確に本質を射抜いているのだった。  気遣ったハズの相手に何もかも看破されていたことで、信二郎は動揺を隠せない。 「と……とにかくっ、ボクはキミの将来のためを思って、」 「若さまー、頑張ってー!」 「押しの一手ですよ、若様!」 「手を握るんです! どさくさに紛れてガバッと!」 「うるさいなあ、あっち行けよもう! てか、キミらはいつの間に集まったんだよ!?」  ふと気が付けば、信二郎と千手の周りには物凄い数の野次馬が出来ていた。  成り行きを見守っていた信者たちの一部は、本気か冷やかしかよく分からないエールを一斉に送ってきてまたも勝手に盛り上がり出す始末。信二郎は顔から火が出るような思いで彼らをシッシッと追い払って回った。 「みんな歓迎してくれてるみたいだね、蓮河くん?」 「うぐぐぐぐ……」  千手の指摘に、信二郎は何も言い返すことが出来なかった。 * * *  しばらくして、信二郎はアローワンと一緒に馬場の外れのほうに移動して来ていた。  信者たちの追撃を逃れるのは至難の業だった。  同時に、着実に退路を断ってくる千手からも。 「ハァ……ボクはどうすればいいのかな。ねぇ、アローワン?」  目の前で大人しく草木をついばんでいる愛馬に、信二郎は話しかける。  しかし当然ながら、答えが帰ってくる訳もなし。  我関せずとばかりにブルブル首を振るアローワンの姿に、信二郎は苦笑を漏らした。 「……そうだよね。キミに聞いたって仕方がない」  信二郎はアローワンをもう一度優しく撫でると、雑木林に続くなだらかな斜面に腰かけつつ、改めて遠くに見える千手たちの姿を目で追った。  数か月前に生まれたばかりの仔馬を引いて歩く千手は、すれ違うゲンドー会信者たちとも大抵親しげに挨拶など交わしていた。信二郎に会いに来る関係で顔見知りが増えているのは知っていたが、信者でも何でもないのにこれほど歓迎されているのは、やはり凄いと感じる。  彼女を快く思わない者がいるのもまた事実だが、実際ごく一部だった。  千手の社交性の高さに、信二郎は脱帽する思いである。 「牧奈は、ボクと一緒にいるのが幸せだなんて言ってくれるけど……とてもそんな訳にいかないよ。だってさ……どこまで行っても所詮はカルト教団だ。無理があるよ」  そんなハズはないと思うが、まるで信二郎の独り言が聞こえたかのように、直後に千手がこちらに手を振って、柔らかに微笑んできた。条件反射的に手を振り返しそうになって、信二郎はすぐさま思いとどまる。 「……ホント、どうしてボクはこんな家に生まれちゃったんだろう」  本来なら、こんな程度のやり取りは何でもないことなのだろう。  だが信二郎には、その何でもないやり取りひとつが千手を不幸へと引きずり込んでしまうのでは、という懸念が常に付きまとっている。  日を追うごとに、信二郎の絶望感は強まっていく一方だった。  ザアアッと音を立て、一陣の風が自らの孤独を煽る様に突き抜けていく。 「こんな家の……あんな父親の子供でさえなけりゃ……ボクは……」  ――苦しいですか? 「決まってるだろ、苦しいよ……」  ――救われたいと思いますか? 「思うよ! 出来るもんなら、救われたいよ! でも……」  ――でも? 「無理だよ、ボクなんかじゃ。こんな人生じゃ、とても……」  ――現世に救いは存在しないとお考えなのですね。 「ハハハ……そうだね。生まれ変わったら……もしも死んで生まれ変われるのなら……そのときは幸せになれるのかも……しれないな……」  ――貴方の願い、聞き届けましょう。 「……えっ?」  その時ようやく、信二郎は重大な違和感に気付いて顔を上げた。  突然のことで意識するのが遅れたが、冷静になると不自然極まりない。  自分はいま、一体誰と話をしていたのだろう?  立ち上がり、背後の雑木林を見た信二郎は途端に息を詰まらせた。  巨大な牛車のような乗り物が、気付かぬ間にそこに停まっていたのだ。  古代中国や平安時代の日本などで、主に高貴な身分の人間が移動に使っていたとされるものだ。ここがいくら田舎であるとはいえ、現代の日本でこんなものを用いる人間はそうはいない。  そして、その手前に、これまた周囲の雰囲気とそぐわない奇妙な風体の女がひとり、信二郎を見下ろすようにして立っていた。 「だ、誰……!?」 「はじめまして。我が名はマーラン。偉大なる反天組織ギューマ党の使者を務める者」  紫色のフードを被り、水晶玉を手にした若い女が、確かにそう名乗った。  フードから覗く顔はやや幼さを残し、色白だがとても美しかった。  小さなメガネのその奥で、青い瞳が光を放っている。  その姿かたちはまるで、ファンタジー小説に登場する異界の占い師のようだった。 「はんてん……なんだって? キミはいつからそこにいたんだ?」 「貴方の願い、確かに聞き届けましたよ……いえ、恐れる必要はないのです」  信二郎の質問に答えることなく、マーランを名乗ったその女は薄い微笑みを浮かべたまま、一歩ずつ斜面を降りて信二郎のもとに近づいてきた。  本能的に後ずさりする信二郎を見て、マーランは機先を制するように言った。 「貴方は、現世には救いがないとそう言った。なるほど、確かにその通り。この世界は欺瞞に満ち満ちています。弱き者は切り捨てられ、誰かが一方的に押し付けた境遇をも自己責任として嘲られるばかり。恵まれぬ者は、顧みられることさえもない……こんな世界は間違っています! そうですね?」 「それは……いやでも待って。何もそこまでは」 「ですが、ご安心を」  なにか話が予想外の方向に発展しているように感じた信二郎だが、マーランは構わず話し続けた。 「今この瞬間より、貴方は自由。心は苦しみより解き放たれ、もはや望まぬ生を強いられ続けることもないでしょう。ギューマ党は、常に弱き者を救済するのです」  信二郎が疑問を口にするより先に、その水晶玉を眼前に掲げるマーラン。  信二郎の視線が思わずそこに吸い寄せられた時、再び辺り一面を突風が駆け抜けた。  マーランの被っていたフードが脱げ、さらりとした銀髪が露わになる。  水晶玉に映り込んだその頭には角が二本、悪魔の如く突き出していた。 「…………は?」 「――――では早速ですが、死んでいただきましょう」  信二郎は顔から一気に、血の気が引いていくのを感じた。  危険を覚えて走り出そうとしたが、気が付くと身体が自由に動かない。  同時に、マーランの水晶玉が怪しい輝きを放ち始めた。  その輝きに照らされた瞬間、信二郎の周囲で虹色のオーラの様なものが実体化した。  驚く信二郎がその正体を知る暇もなく、オーラは信二郎から引き抜かれるようにしてたちどころに水晶玉の中へと吸収されていった。  水晶玉の中で渦を巻き、凝縮していくオーラを前に、マーランが絶叫する。 「弱き者らの願いよ、形をとって現れたまえ! 世界の歪みを糧として、哀れな子羊の心をたちどころに救済したまえ! 牛魔降臨、ルワルワルーワーッ!!」  謎の祝詞を紡ぎ終えたマーランが水晶玉を天に掲げると、その中から巨大な塊が飛び出して空中で制止し、やがて雑木林の只中に落下した。  その衝撃で信二郎は、思わずぺたりと尻もちをつく。 「な……な……?」 「ぶもおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」  出現した巨体が、身を震わせながら咆哮を放つ。  それは信じられないことに、直立二足歩行する乳牛の化け物だった。  白黒のブチに彩られ、でっぷりと太った全身に鎧をまとった、人の身の丈ほどもある鈍器を握りしめた牛の怪物。それがいま、目の前にいたのだ。 「やれ、牛魔獣ハンマーホルスタイン!」  マーランにそう呼ばれた化け物が、命じられるなり手にしたハンマーを振り回した。  周囲の雑木林が木端微塵に吹き飛び、その煽りで信二郎も地面を転がされる。  驚いたアローワンがいななきを残し、逃げるように駆け出した。  先程の衝撃で、立木にくくりつけてあった手綱がほどけたのだ。 「なんだよっ……何なんだよこれぇっ!?」  信二郎は目の前の出来事が、俄かには信じられなかった。  だが全身を襲う痛み、木くずの匂い、地を揺るがす怪物の足音。  どれも幻想と断じるには余りにも生々しすぎた。  迫りくる脅威に、信二郎は死に物狂いで立ち上がってその場を逃げ出した。  同じ頃、本部会館に近い馬場では多くの信者らが、何も知らないまま馬たちと一緒の時間を過ごしていた。  そこに突如として轟く爆発音。人々は一斉に雑木林の方に顔を向けた。  誰もが呆気に取られた表情をしている。殆ど続けざまに、同じ方角から信二郎といたハズの白馬・アローワン号が何かから逃げるように走って現れたことで、彼らの困惑の色は増々深まっていく。  そこへ更に信二郎が息せき切って駆け込んできたことで、疑問は最高潮に達した。 「若様、さっきの音は何です? 一体何がどうしたんで……」 「逃げて! 逃げて! 今すぐ逃げて!」 「ぐおおおおおおおおおおおおおおお!」  信二郎の後を追うように現れた牛魔獣が、手にしたハンマーを地面に叩きつけた。  メリメリと音を立て、馬場全体に巨大な地割れが広がっていく。  裂けた地の底からそこかしこに白煙が噴き出し、信者たちの多くが足を取られてその場に倒れ込んだ。 「うわぁぁぁ!」 「怪物だぁぁ!」  あっという間に蜂の巣をつついたような騒ぎになった。  牛魔獣が得物を振るい、手近な柵を粉々にして人々の頭上に木片の雨を降らした。  何も知らない信者や、教団所有の馬たちが、一斉にパニックを起こして逃げ惑う。 「きゃああ、終わりよ! この世の終わりだわ!」 「神々の怒りだ! ハルマゲドンだ!」 「ビバ・ゲンドー!!」  多くは、意味不明なことを口々に喚くばかりだった。  立て続けに牛魔獣の攻撃が繰り出され、信二郎も彼らと共に割れた地面に倒れ込む。  それでも何とか生き延びようと、傷だらけの状態で立ち上がったそのとき、信二郎はすぐ近くで千手が逃げ遅れていることに気が付いた。  その姿が視界に入った途端、信二郎の中から全ての痛みが消え去るような気がした。 「牧奈……ッ! 牧奈、逃げるんだ! 早く!」 「蓮河くん待って! 大変なの、この子が……」  信二郎が駆けつけると、千手の足元に先程の仔馬がへたり込んでいるのが分かった。  ひび割れた地面に足を取られてしまい、立ち上がれずにいたのだ。 「私ひとりじゃ、助けられなくて……!」  心優しい千手のことだ、それでも何とか仔馬を見捨てまいとしたのだろう。  信二郎は即座に千手と逆サイドに回ると、仔馬の体の下に腕を差し込んで指示した。 「牧奈はそっち側支えて! せーので持ち上げるよ! いいかい、せーのっ!」  信二郎の掛け声に合わせて、持ち上がる仔馬の体。  ふたりで協力したことで、よろつきながらもどうにか仔馬は立ち上がりに成功した。  怯えたように千手にすり寄る姿を見て、信二郎は不謹慎ながら微かな安堵を覚える。 「良かった、良かったね……! ありがとう、蓮河くん!」 「いいから、そいつを連れて逃げて! 早く!」 「えっ、でも! 蓮河くんも一緒に……」 「いいから行って!」  千手の背中を押して、仔馬と共にその場から強引に逃がそうとする信二郎。  上手くは説明できないが、信二郎は本能的に察知していた。  あの牛の化け物は、信二郎の命を狙っているのだ。  直後、煙幕の様な土埃の中から巨大なハンマーが飛び出してきた。  遠心力を乗せた重量の直撃を受けた信二郎は、たちまち紙切れの様に吹っ飛んだ。  千手の悲鳴が聞こえた気がしたが、それも瞬く間に遠のいていく。  微かな浮遊感の後、厩舎の外壁に激突した信二郎は地面の上に落下。続けて落ちてきた大量の木材や藁の束に押しつぶされた。  息をしようとして、瞬時に引き裂かれるような痛みに襲われた信二郎は、思わず蛙の潰れたような声を上げてしまった。文字通り虫の息だ。 「――――おめでとうございます!」  遠のきかけた意識の中で、何故かハッキリとマーランの声だけが聞こえた。  倒れ伏した地面を伝って、規則的な振動を感じる。  きっと、マーランと共にあの怪物が近づいてきているのだ。  だが逃げようと思ったところで、もはや体が一切言うことを訊かなかった。 「貴方の苦痛は、間もなく終わりを迎える! その時貴方は晴れて得られるでしょう、心の自由を! 呪縛からの解放を! ああっ、なんと素晴らしい!」  マーランの声は、何かに陶酔しているように聞こえた。  大した根拠はないが、なんとなくゲンドー会の信者に似ているなと思った。  尤もそんなことが分かったところで、どうしようもない。  信二郎の命は、今まさに尽きようとしているのだ。 (きっとこれで良かったんだ……これで……)  信二郎の瞼が次第に重くなり、少しずつ閉じていく。  音という音が遠ざかり、世界全体が暗闇に包まれていくようだった。  だから何の前触れもなく辺り一面を真っ赤な光が照らし出した時も、脳が事実を受け入れるまでにしばらくの間が必要だった。 「なに……あれ……?」  離れた場所にいた千手は、空の彼方から舞い降りる赤い光の球体を目撃した。  呆然とする人々を尻目に、球体は信二郎と牛魔獣の間に割って入る。 「ま、まさか……まさか!?」  マーランは慌てて一歩後退しつつも、警戒する姿勢を見せた。  信二郎は残り僅かな力で顔を上げたが、あまりの眩さにその正体は一向に判別不可能だった。  ただしマーランだけは、何かに気付いたらしく一転して憎しみの表情を浮かべていた。 「おのれ、おのれ! やはり貴様か、聖天大せ――――」  すべて言い終えるのを待たず、赤い球体は牛魔獣目掛けて突撃した。  まるでバリアに弾かれたように、体の前面から火花を飛び散らせる牛魔獣。  懸命に踏みとどまる姿勢を見せていたものの抵抗虚しく、たちまち牛魔獣は背中から山の向こう側へと一直線に射出されていった。  ドップラー効果を発揮する怪物の悲痛な雄たけびに、咄嗟に身体を庇うような仕草を見せたマーランだったが、顔を上げると屈辱そうに顔を真っ赤にして怒り狂う。 「……おのれ、覚えておれェッ!」  ローブの裾を翻して逃亡していくマーラン。  辛うじて一連の出来事を目撃した信二郎だが、もはや声ひとつ出せなかった。 (はは……おかしいや。ボク、どうして……)  今わの際に、信二郎の顔に乾いた笑みが浮かぶ。  あれだけ暗い顔ばかりしていたというのに、ある意味皮肉な話だった。  今だけは明確に、愉快だという思いが胸の奥に湧いてきている。  赤い光の膜が消失し、やがて中から美しい少女の輪郭をしたものが姿を現した。  駆け寄ってくるそれが、最期の光景で幸せだったかもしれない。  自分の前に跪いた誰かの姿を瞳に焼き付けて、信二郎はふと疑問に思った。 (どうしてボク……安心してるんだろう……)  その瞬間、信二郎の視界が完全にブラックアウトする。  体の中で最後の鼓動が消失し、氷の様な冷たさだけが無限大に広がっていく。  信二郎の世界は、永遠の闇に閉ざされた。 3ce4fdaf-9a2b-4497-902a-4234184367a5
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