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5cdf6646-e841-4a62-b29f-4b22d8d16154    磯釣りしていたら亀がかかった。  はなしてあげてサオをなげると、またおんなじ亀がかかった。  運のないヤツねと、こんどは力いっぱい遠くへほおった。それなのに、またかかった。亀とはいえ、気の毒になった。釣針で、くちをざっくりえぐられて、亀は痛くてもがいていた。  目つきがわるいが、にくめなかった。まぬけなところが、気に入った。  藻のついた甲羅をもって白い腹肉をつついていると、のろまなところも愛想のないところも、なにもかもが他人のようには思えなくなってきて、 「憐れなヤツね」  なんて亀あいてにつぶやいていた。  すると、 「おまえなんかに言われたくない」  と亀がしゃべった。ながれるような流暢な、あっぱれな日本語だった。  英語もできるのだろうかと思って、 「パードゥンミー?」  と訊きかえしてみた。  すると亀はみるみる血相かえて、 「英語だろう? バカにするなよ」  とひとしきり怒りだした。  亀相手に卑屈になることもなかったが、ついつい癖があらわれて、 「すいません」  なんて頭まで下げてあやまっていた。  亀は妙に世慣れていて、 「わかればいいんだ、わかれば」  なんてなんども深くうなずいている。そうして手足をのばしてむずかって、 「それよりはやく釣針をはずしてくれ」  とたのんでくる。  釣針をとろうとすると、痛いからもっとていねいに扱えとか、傷口をひろげたらしばくぞこのエテ公めとか、こっちも一所懸命やっているのに、ああだこうだと難癖つけてジタバタもがいて大騒ぎした。  苦労して釣針をはずして、テトラポットにのせてやった。するとこんどは喰いものをくれと言ってくる。仕掛の餌ていどでは喰った気がしないと言うのだ。袋から青いそめをとって差しだすと、いよいよもって亀は怒った。壱万年も生きるくせに、すこぶる短気なヤツだった。 「そんな虫、気味わるくて喰えるかよ」 「さっき食べてたけど」 「さっきはさっき、今は今だ」 「食べられるくせに」 「だから言ってんだろ、俺はちゃんとしたもの喰いたいんだ」  ちゃんとしたものとは、人様が食べるお弁当のことだった。亀のくせに、バッグからただよいだす匂いを嗅ぎとったのだろう。知恵があるし、鼻もきく。頬の傷すら癒えている。妙ちきりんな、おかしな亀だ。  すぐに出すのも癪なので、遠く水平線のむこうから吹きわたる潮風をあびながら、積み重なるテトラポットの一角にゆっくりと坐ってみた。  顔や手足にていねいに日焼けどめクリームを塗りなおして、亀をさんざん焦らしてから、もったいぶってお昼ごはんをとりだすと、 「時間かけるな、さっさと出せよ」  なんてかわいくないことを言う。いやな亀だ。  鶏そぼろごはんを箸ですくって食べさせながら、こんなにおしゃべりでは呼び名がなくてはなにかと不便だなと思って、 「なんて名前なの?」  と訊いてみた。  目下ごはんを食べるのに夢中な亀は、 「名前はない。亀でいい」  なんてつっけんどんに返事する。  霊長類のはしくれとして、亀なんぞに威張られてはメンツだってたたないし不本意きわまりなかったけど、わざわざ張りあうのも大人げないしめんどうくさいので、 「じゃあ亀って呼ぶ」  と言ってタコウインナーを食べさせた。 「嗚呼(ああ)、亀でいい。亀って呼んでくれ」  と亀は言い、タコウインナーにぱくついて丸呑みした。そうしてひと呼吸おいてから、できのわるい部下にでも説教たれるように、 「しかしな、ふつうじぶんを名乗ってから訊くもんだぞ。おぼえておけ」  なんて偉そうに言う。亀のくせに、案外しっかりしている。  張りあうわけではないけれど、こっちにだってわずかばかりにせよ自尊心はのこっている。 「かおる。小川かおる。それが名前」  ぶっきらぼうに言ってやる。  すると亀は噛みしめるように、 「小川、かおる」  と言った。そうして鶏そぼろごはんをゆっくり飲みこんで、また言った。 「かおる。小川、かおる」  ことばの響きをたしかめながら、神妙そうに首をのばして、亀はこっちを見あげてくりかえし言う。 「小川かおる、か。おまえ、いい名前さずかったな」  まさか、亀に褒められるとは思ってもみなかった。口はわるいが、根はけっこういいやつなのかもしれない。  照れくさくて恥ずかしかったけど、じぶんに正直に、素直にありがとうを言ってみた。  聞こえているのかいないのか、亀は無感動にお弁当箱をながめながら、 「嗚呼(ああ)」  とうなった。そうして、またぞろ鶏そぼろごはんにとりかかった。 「かおる、最近よく海に来るな」  缶ビールを飲んでいたら、亀が言った。かおる、と呼んだ。  亀はつよい陽差しに眼を細め、にぎやかに群がるカモメをながめている。  亀と会話しているじぶんを不思議にも思ったけど、違和感はまったくなかった。  どだい住む世界がちがうからこそ、亀にならば、なんだって相談できそうだった。 「海が好きか?」  亀が訊いた。こっちをのぞきこんでいる。  きらいではないけど、好きというわけでもなかった。  しずかな宵の海の、月明かりが淡く輝く凪のひろがりに、なにかこう、遥かな太古から吹いてくる悠久の風のようなものを、かすかにではあるけれど、たしかに感じとることができた。奇妙にあかるい遠浅の、銀河の白んだ砂床へと、音もなくしずんでゆくような感覚もおぼえた。それは、好きという感情とはちがっていた。感情すら超えているような、そういう宇宙をくるむ沈黙を、海のひろがりに感じることができた。  亀は遠くへまなざしをなげていた。その横顔は沈黙の重さを量っているようにも見えた。  亀の期待にこたえるべく、気のきいたことを言ってみたかったが、そう思って実行すると、いつも決まってかならずと言っていいくらい、いらない誤解をみずから招きよせる結果におわった。じぶんでもうまく捉えきれていない、じぶんにしかわかるはずがない考えとか想い、それをだれかに伝えようとしては、ことごとく失敗した。挫折をくりかえしてきた。さびしくも哀しくもなかった。むしろ滑稽だった。沈黙する海の底に、裸身ひとつでとり残されているような気分だった。  亀はまだ水平線のむこうをながめていた。  亀のあたまをなでながら、 「海は、好きっていうか、なんとなく落ちつく」  そうこたえてみた。  亀はうなずきもせずに、 「俺は、迎えにきたんだ」  とはっきり言った。 「かおるを迎えにきたんだ」  波がテトラポットに打ちつけていた。満ち潮になりはじめていた。  缶ビールの結露の汗が、しずくとなって足もとにたれていた。 「俺は竜宮界からやってきた。異次元というやつだ。もっとも、俺にとってはこの世界こそ異次元なんだが、さいわい高次元から低次元にうつってきたら平気なわけであって──と、いちいちこうして説明してると、ものすごく話がややこしくなっていって俺のほうこそ混乱しちまうんで詳細を語るのはやめておく」  わけがわからなかったけど、亀の話が熱心なので、釣られてうっかりうなずいた。すると、亀も満足げに力強くうなずいた。 「ともかくだ、かおる――」 「はい」 「未練がないなら、いますぐにでも出発する」 「いますぐ?」 「すぐだ」  とうとつに言われたって困るだけだったので、ふと疑問に思ったことを、訊いてみた。 「行くのはいいけど、もどってこれるの?」  亀は笑った。亀が笑うと空気もふるえた。さっきの話でないけれど、もしかしたら、時空がつかのま歪んだのかもしれなかった。 「なに寝ぼけたこと言ってる、もどってこれるわけないだろ」  そう言って、亀はまえあしで甲羅をたたいてみせた。 「さあ、行くんなら乗れ。出発だ」  猫いっぴきなら可能だろうが、どう考えても、ヒトが乗るには甲羅のサイズがちいさすぎた。それに、もうもどれないのであれば、この世界のみんなに、さよならくらいは言っておきたかった。 「もうすこしだけ、時間がほしい」  もうずっと悩んできたのだ。考えても、どうにもならないのはわかっていた。 「どれくらいだ?」  首をひっこめ、亀が訊いた。 「あと、二日くらい」 「待てば結論をだせるのか?」 「たぶん」  亀は考えた。しきりに唸っていた。唸りながら、てらてらの丸い頭を、まえあしでぺしぺしたたいていた。 「たぶんじゃなくて、かならず」  ハッタリだった。でるわけないのに、大見得きって、そう言った。  亀はくるりとくびをまわすと、 「ただし条件がある」  と凛々しく言った。 「かおるが結論をだせなかったら、連れて行くかどうかは、俺が決める」  異論はなかった。うなずいた。  じゃあ二日後に、と言おうとすると、亀はしきりにまえあしをばたつかせて、はやく抱きあげるようにと催促してきた。  両手でつかんで持ちあげると、もっとやさしく扱えだとか、落とさないように気をつけろだとか、くちのわるい小姑みたいに、ああだこうだと難癖をつけてきた。  うるさいので抱きしめてやると、 「それじゃあ、かおるのところで厄介になることにしよう」  なんて亀は言って、すぐに不機嫌がなおってしまうのだった。  飼うというか泊まるというか、そんな話、ぜんぜん聞いてなかった。なるほど、高次元の生きものだけあって、一癖も二癖もある、なかなかに手強い亀だった。 「かおるは、ひとり暮しか?」 「あいにくね」  こっちも負けずに、嫌みをこめて言ってみた。 「そうか、ひとり暮しか」  亀のくせに、したり顔で話していた。
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