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夏生が耳をそばだてていると、今井先生がサポータールームに入ってきて、夏生を呼んだ。山田さんたちも、慌てて話を終わらせた。
今井先生は、基本的に愛想は良くないが逆に言えばいつも機嫌の変わらない人で、仕事を手伝うにはやりやすい相手だと夏生は思っている。無駄口もないので準備も早く終わるし、迷ったことを確認するとすぐその場で判断してくれるので、頼りがいがある。
今日の夏生の事前作業は、いつもの全員分のログインを終えたらプリントの配布準備程度だったので、時間が余り手持ち無沙汰になった。今井先生に他に手伝うことは無いか訊いてみたが、特別には無いようなので、さっきのプリントを眺めていた。イラストが可愛いなと思った。
「佐倉さんは、IT企業に就職したりするんですか」
珍しく今井先生から話しかけられた。先生もあらかた準備が出来たみたいで、少し余裕があるんだろうか。
「そうですね。興味のある方面はそちらなんですが、やっぱりハードルが高いですね」
「もう就活は始まっているのかな」
「夏休みに紹介されてインターンに行ってみたんです」
「どうだった」
「会社は良かったけど、一緒にインターンしてたメンバーに圧倒されました」
「へえ」
「コンテストに入賞したりしてる奴もいて、みんな意識高い系ばかりだったから、僕みたいな凡人は浮いてしまいました」
「そうでもないでしょう」
「デキる奴を見ると、やっぱりスゴイって思いますよ」
今井先生と仕事以外の話をこんなにしたのは初めてだった。気を許した相手には気安く話してくれる人なのか、だったら自分はそうなれたわけで、夏生は嬉しかった。
「先生は最初から、教師志望だったんですか?」
少し踏み込んで訊いてみた。
「私の両親はともに教員で、大学も教育学部に行ったんだよ」
「そうなんですか。教育者一家なんですね」
「それは今はあまり褒め言葉じゃないかも。価値観がいかにも狭そうで」
笑いながら言ってくれてはいるが、夏生は自分が失礼なことを言ったのなら申し訳なく思った。
「すみませんでした」
「全然。私が勝手に思ってることだから。別に苦労していて無いし」
「大変なんですか」
「面倒なタイプの人もいるから。高岡君とか苦労したみたいで」
「えっ?」
「あ、いらん事言った。これオフレコね」
「…あ、はい」
「大学の後輩でね。いろいろ聞いてるから」
また『いろいろ』だ。
「僕は何も聞いていませんから、心配しないでください」
今井先生は頭を掻いて、イカンなあと自嘲した。
そうこうしていると予鈴が鳴った。直ぐにクラスの子たちが来るだろう。
夏生は困惑していた。今日はいきなり沢山の知らなかった情報が入ってきた。高岡先生は『いろいろ』あった人で、みんなが彼のことを『大変だった』と言う。夏生の前ではいつも暢気な感じで機嫌が良くて、時々ドキッとさせる人なのに。そんな気配を感じたことは無かった。
微妙な関係を続けている。言葉に出しての合意は何一つ無い。
でも、と思う。
(僕は先生にとっての『特別』ですよね)
自分にとっては、間違いなく『特別』な人になっていると、夏生はもう自覚している。
授業はまだ始まっていないが、家に帰りたくなった。こんなことは初めてで、感情が乱れた自分を持て余しそうになり、うんざりした。水曜日なのに、と思う。早く彼に会いたかった。
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