8 [回想]涙に誓いを

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8 [回想]涙に誓いを

 聞くと彼は行商人の一員で、届け物の最中に突然逮捕されたらしい。  通行手形があると言っても聞き入れられず、手を縛られてしまって見せる事もできなかったそうだ。   「ありがとうゴザイマス! あなたは、命の恩人です……!」  カジミール・デュモンと名乗った少年は、駆け出しの行商人だった。  嵐が来そうだったし、他所でドルイユ伯領の悪評を広められても困るし、彼と有効な関係を築く必要に迫られていた。私は彼を馬車に乗せ、連れ帰った。  そしてお風呂に入れ、夕食を提供し、彼の訛りを直す手伝いをした。  世間話や生い立ちの話題で彼は雄弁だったので、指摘しやすかった。 「それじゃあ、半分はこの国の血が流れているのね」 「はい。産まれも育ちも、ほとんど海の上デス」 「そうなの。それで日焼けしているの?」 「……肌の色ですか?」 「ええ。今の発音はよかったわ」 「はい! 肌の色は生まれつきデス!!」 「また元に戻った」  妹がいたからなのか、彼は少し年下で、まるで弟ができたような気分にさせてくれた。彼の異国での思い出話はとても興味深かったし、落ち込む事が続いたドルイユ伯爵家に吹き込んだ初夏の風のように、元気にしてくれた。  それに、多少の訛りがある程度で使える言語は、たくさんあった。完璧ではなくても7ヶ国語を喋る事ができたのだ。 「凄いわ……」 「海賊とも秘密の暗号でやりとりできるんですよ」  10日もすると、彼の訛りはすっかり消えていた。 「ど、どうやって?」  海賊なんて、物騒だわ。  このドルイユが陸地に囲まれていて、本当によかった。 「光とか、クジラの鳴き声の真似や、ホラ貝」 「あなたは多才ね」  そして彼の才能は、語学だけではなかった。  数字に強かったのだ。なんといっても、商人だから。 「その額なら、インパァツジア皇国の香料を1回運ぶだけで稼げますよ」 「え、なに?」  彼は貴族ではないけれど、私よりはるかに優れた人間だった。  だから私は、既に彼を友人と見做して、かなり私的な事まで打ち明けていた。ドルイユ伯爵家の不祥事そのものは聞き及んでいるとの事で、基本的には励ましてくれるので、ついつい口が滑ったのだ。  それに彼は、もうじき国の外まで行ってしまう人間。  弱音を吐ける、唯一の相手だった。  だから、領土を守るためにした借金の話をしたのだ。  それで、さらっと稼げるなんて言われてしまった。 「冗談よね?」 「いいえ? ちょうどベケムヌ列島国を通る際に種と糸の取引もあるので、行って帰って来るだけで充分稼げます」 「……そうなの? そういうもの?」 「はい。ただまあ、死ぬかもしれなかったり、1年くらいかかりますけどね」  驚愕している私の手を、彼は徐に握った。   「!?」  私は、それにも驚愕して、彼の大きな手を見つめていた。 「レディ・ドルイユ。バルバラ……俺は、あなたに命を救われた。恩に報いたいんです。どうせ命懸けの航海なら、あなたのために」 「待って……待って、離して!」 「命を懸けたいんです」  低く蕩けるように囁いて、彼が私を抱き寄せた。  そして唇が、熱い吐息が、近づいて来て…… 「やめて!」    力いっぱい、彼を突き飛ばした。  腕力で適うはずないのに、彼は私を離した。 「こんなつもりじゃなかった! だって私には婚約者が──」  叫んでいる途中で、我に返った。  私にはもう、婚約者なんていなかったのだ。  愕然として、それから私は顔を覆って号泣した。私はひとりぼっちだった。愛する人と引き裂かれて、悲しむ暇もなく父が亡くなって、領主になった。  話を聞いてくれるのは、老いた執事と外国の商人だけ。  膝から崩れ落ちて、堰を切るに任せて泣いた。  しばらくすると、気配がして、彼が真正面に跪き私の肩をそっと掴んだ。 「すみません、俺が勘違いしたんです。俺に惹かれて、俺を助けてくれたのかと。……愛する人がいるんですね」  その声があまりに優しかったので、私は子供のように泣き叫んでしまった。 「彼を愛しているの! ジェルマン……ああ、ジェルマン!!」  ルベーグ伯爵は、私を、ふしだらな血筋の女と蔑んだ。  しかも妹が駆け落ちまでして棄てた相手は王子。処刑も追放も免れたとはいえ、王族との確執は完全に他の貴族をすべて敵に回してしまった。 「だから、ルベーグ伯爵は……息子には相応しくないって……っ」 「愛しあっていたんですね」 「今もよ! 愛しあってるわ! だけどもう、結ばれる事はないの!!」  彼は私の肩を、腕を、丁寧に摩ってくれた。  髪にも頬にも触れない慰めが、どれほど嬉しかったか。  ただ一度だけ、鼻先が触れそうなほど近くで私の目を覗き込んで、言った。 「俺がいますよ。大丈夫。俺はあなたに命を救われたんです。あなたのために、なんでもやります。だから元気を出して。泣かないで」  だけど私あなたを、と言いかけたところで彼は微笑んだ。 「俺は一生、あなたの犬ですよ。犬は主人を変えない。あなたを守り、愛し、絶対に裏切らない。そして、あなただけは絶対に噛まないんです」
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