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私の主は、ぜんっぜん可愛くない。
「着替え終わったぞ。ヴェトナ」
噂をすれば、我が主が執務室に戻ってきた。
「……今日もネクタイ曲がってますね。クロン様」
私はクロン様の前にしゃがみ込んで首元に手を伸ばす。
「さっ、触るなっ!」
私が近づいたところで、クロン様は顔を真っ赤にして私の両手を華奢な右腕で振り払う。そして、12歳の男の子にしては細すぎる両脚で後ろに引き退がった。
「これくらい、自分で……」
「……」
「これをこうして……」
「……」
「……こうだ!」
「……」
「あ、あれ?」
じれったい。
もの凄くじれったい。
子供のクロン様には私という大人の女性執事がいるのだから、ネクタイに限らず着替えも任せればいいのに、なぜか我が主はどうしても自分でやりたがる。
「ほら、できたぞっ! 別にヴェトナの手伝いがなくてもできるんだからなっ!」
いやさっきよりネクタイ曲がってんだよなぁ……。
子供のくせに見栄なんて張って、本当に可愛くない。
と、私が不満をこぼしていると、我が主は自分の椅子に座り、机の上に一枚の便箋とペンを用意し始めた。
「クロン様、お手紙でも出すのですか?」
「ああ。僕の友達にな」
「へぇ〜。クロン様って友達いたんですね〜」
「ばっ、バカにするなっ! 友達くらいいるしっ!」
まさかの事実に私がちょっとだけ驚いていると、クロン様は不意に顔を俯かせた。
「……一人だけだけど」
「あらま」
「で、でも、今もこうやって手紙のやりとりするくらいの仲で、いざって時には頼りになる良いやつなんだ」
にしても、この究極に面倒なツンツンおぼっちゃまの友達か……。
ま、手紙を送り合うくらいだから仲は良いんだろうけど、ロクなやつじゃないのは確かだと思う。多分。
「あ、そういえばあいつに呼ばれてるんだった……」
クロン様は不安げに呟いた。
「あいつ……? あー、当主様のことですね。早く向かったほうが良いのでは?」
「い、言われなくても行くし……」
私にそう言い放ってから、クロン様は落ち着きのない足取りで執務室の扉に向かう。
「じゃあ、僕は行くけど、ヴェトナはちゃんとこの部屋の掃除しておいてよ」
え、めんど……。
にしても、クロン様に仕えるようになってもう半年以上は経ったけど、私に頼む仕事と頼まない仕事の線引きがいまだにわからない。謎だ。
「じゃあ、行ってくる」
「はーい」
クロン様は扉を開けて執務室を去っていった。
……掃除、するか。
❇︎
「ふぁ……」
あくびをかましながら、私は掃除に使う道具を取りに屋敷の廊下を歩いていた。
……眠い。
きっと、クロン様に振り回されるせいで、疲れが溜まってるんだろう。
最悪、別の勤め先探すかな〜……。
「ヴェトナを解雇なんて、僕は認めないぞっ!」
すると、当主様の部屋の前を通ったところで、中から聴き慣れた子供の声が聞こえてくる。
間違いない。
これはクロン様の声だ。
「……解雇?」
思わず私は足を止めて呟いた。
眠気に襲われていようとも、自分の話となれば流石に気になる。
「……」
まぁでも、ここをクビになったら別の仕事探せばいいか。
私は特に何も思わずに掃除道具を探しに向かう。
「ヴェトナは……」
次の瞬間、扉の向こうからなんとも興味深い言葉が聞こえてきた。
「ヴェトナは僕の『大切な執事』だっ!」
その声は、私にはっきりと聞こえた。
「え?」
つい、その先が気になっってしまった私は、扉に耳を当てて会話を盗み聞きしようと試みる。
「貴様の意見など聞いていない」
すると、冷酷で俗欲に満ちた野太い声が聞こえてきた。
間違いない。
これはこの屋敷の当主の……そして、クロン様の【お義兄様】の声だ。
「俺の両親が病気でくたばった今、この屋敷は俺のものだ。屋敷にある物も金も女も、全て俺のものだ。そして、親が持っていた子爵の地位も、俺のものだ」
隠しきれない独占欲を滲ませながら、当主様は滑舌の悪い下卑た声音でそう言い放つ。
「妾の子でしかない貴様に執事など不要だ」
「だ、だからってそんな勝手なこと……」
「黙れ。俺の屋敷に住まわしてもらってる分際で無駄口を叩くな」
脅迫にも似た攻撃的な言葉を投げかけられようとも、扉の向こうから我が主の反撃は聞こえてこない。
聞こえてくるのは、この屋敷を統べる卑しい支配者の声だけ。
「前々からあいつは目障りだったんだよ。女のくせに、子爵である俺の従者という高待遇を足蹴にしやがって……」
えだって、ハゲ散らかしてるキモデブの世話とか嫌だし。豚の世話なら執事じゃなくて飼育員雇えよ。
ってかクビにする理由って、ただの私怨かよ。
「なんにせよ、俺に逆らう奴は全員追い出してやる」
「……」
「それが嫌だというのなら、大人しく俺に降れ。まぁ、生意気な男には人間としての満足な生活は約束できんがなぁ?」
体内にある臓物の全てが拒否反応を起こすような、そんな卑劣で醜悪な嘲笑が辺りに響き渡った。
「はぁ……」
すると、その嘲笑の中に、やれやれといった感じのため息が混じる。
「あいつに頼る、か……」
「んん? 誰のことだ?」
不機嫌な様子の当主に臆することなく、クロン様は淡々と答える。
「僕の『友達』だがなにか?」
我が主がそう口にすると、突然、当主が不愉快な笑い声を発しながら話し始めた。
「トモダチィ? はっ。妾のガキのオトモダチがなんだってんだ。そんな奴に子爵である俺をどうにかできるわけがねーだろバァーカ!」
面白さが頂点に達したのか、当主はゲラゲラと品のない嘲笑を撒き散らす。
「この屋敷では子爵である俺が全てなんだよ!」
子供は大人に抗えない。
弱者は権力に抗えない。
人間は運命に抗えない。
今のこの状況は、どうやっても覆すことはできないだろう。
「そういえば……。お前には言ってなかったな」
下衆な当主の声によって穢された空気を引き裂くようにして、少年の凛々しい声が響いた。
「せっかくの機会だから教えてやるよ」
「なに?」
怪訝な声を発する当主に対して、我が主は内に秘めた切り札を切る。
「僕の友達は、この辺りを統べる『公爵家の次期当主』だ」
その声は私の元まで確かに届いた。
「こ、公爵様……だと?」
無様に狼狽える当主の声を聞くに、クロン様から発せられた反撃の一手は奴に大きな動揺を与えたらしい。
「まぁ、ちょっとした縁で昔から付き合いを続けてる仲ってとこだな。で、能無しの子爵様でもわかるだろ? 公、侯、伯、子、男……。上から順に爵位を並べると、公爵は最上位。それに対して子爵は四番目の地位だ」
その言葉の通りなら、どう足掻いても子爵が公爵に敵うわけがない。
「脅迫、恐喝、窃盗、強姦、暴行……。お前の悪事を全て鮮明に記述した手紙を出し、全てを終わらせてやる」
「……」
「ふっ。信じていないみたいだな。だが、あいつは『いざって時には頼りになる良いやつ』だ。きっと、害獣の駆除に一役買ってくれるはずだ」
クロン様も、私の知らないところで酷いことをされてきたのだろう。
その証拠に我が主の言葉の一つ一つから、黒々とした怨念がひしひしと感じ取れる。
「近いうちにお前は子爵の地位を剥奪され、この土地を追い出される」
「……」
「それが嫌だというのなら、大人しく僕に降れ。まぁ、生意気な豚には人間としての満足な生活は約束できんがなぁ!」
勝ち誇ったようなクロン様の声が、扉を通り越して屋敷中に反響する。その声量から察するに、クロン様は本当にこの当主のことが憎かったのだろう。
きっと、我が主は怒らせると怖いタイプの人だ。本当に可愛くない。
「悪く思うなよ。これは僕から大切なヴェトナを奪おうとした罰だ。せいぜいあと少しの子爵としての暮らしを楽しめよ」
「こ、このクソガキっ……」
ついさっきま高々と嘲笑を撒き散らしていたのに、今の当主からは歯噛みするような憎しみしか聞こえてこない。
「じゃあな」
クロン様がぞんざいに告げると、扉の中から聞こえる小さな足音が、私のいる扉の方へと近づいてくる。
やばっ……。掃除をサボって盗み聞きしてたのがバレる。
我が主に見つかる前に、私は全速力で掃除道具を取りに行った。
❇︎
翌日。
「着替え終わったぞ。ヴェトナ」
我が主が執務室に戻ってくる。
「……ネクタイ曲がってますよ。クロン様」
私はクロン様の前にしゃがみ込んで首元に手を伸ばす。
「さっ、触るなっ!」
やっぱりクロン様は顔を真っ赤にして私の手を払い除ける。
こんな乱暴な態度は、わざわざ当主から身を挺して守るほどの『大切な執事』に向けるものじゃないと思う。
「あの、クロン様?」
「な、なんだ?」
「なぜ私から距離を取ったり、乱暴な態度を向けたりするのですか? 毎回ネクタイを直そうとしても拒むのはなぜですか?」
私は直接聞いてみた。
「そ、それは……」
しかし、クロン様はなぜか私から顔を背けてしまう。
「ヴェトナに近づかれると、恥ずかしいんだよ……」
すると、我が主はもの凄く小さい声で何かを呟いた。
「え? なにか言いました?」
「なっ、なんでもないっ! 僕はヴェトナに世話をされるのが大嫌いなんだっ!」
……どうやら私が『大切な執事』というのは何かの間違いだったらしい。
なら、わざわざここに留まる理由もない、か。
「じゃあ、私は執事をやめて家に帰らせて……」
「ダメだっ!」
すると突然、クロン様が食い気味で私の言葉を遮った。
「あっ……」
そして我が主は、まるで自分の失態に気づいたかのようにして口元に手を当てている。
が、それも一瞬のことで、クロン様は途端にプイッと顔を背けてしまった。
「……」
世話をされるのが嫌。
けれど執事をやめるのはダメ。
これは一体どういうことなのかと思考を巡らせていると、私はあるものを見つける。
「あ」
背を向けたクロン様の両耳が、真っ赤に染まっている。
そのとき私は、矛盾する主の言動の真意を、全て察した。
「大丈夫ですよクロン様。私はやめませんから」
我が主の正面へ回り込み、私は彼の顔を見てにこやかに告げる。
「だって私は、クロン様にとって『大切な執事』ですからね〜」
途端にクロン様の目が泳ぎ始め、元々赤くなっていた顔はもっと赤く染まる。
「な、なぜそれを知っているんだっ!?」
「あー、すみません。昨日、当主様の部屋から聞こえてきてしまって。別に盗み聞きするつもりはなかったんですよ?」
まぁ、嘘なんだけど。
「そういえば、ついでに聞いちゃったんですけど、クロン様のお友達って公爵家の次期当主様だったんですねぇ」
「……あれは、嘘だ」
「え?」
え、嘘なの? てっきりそうだと思ってたんだけど。
「なんでそんな嘘ついたんですか?」
何気なく私が聞いてみるけど、クロン様はおろおろと動揺するばかりで、全然目を合わせてくれない。クロン様にとって何か不都合なことでもあるのだろうか?
「だって、ヴェトナと離れ離れになっちゃうから……。仕方なく……」
私から顔を背けたまま、クロン様は微風よりも小さな声で恥ずかしそうにボソボソと呟いた。
「何か言いました?」
「な、な、なんでもないっ!」
ただ聞き返しただけなのに、なぜかめちゃめちゃ怒られてしまった。
そして私の理解が追いつくよりも先に、クロン様は私の方を指差しながら早口で言葉を吐き出す。
「とっ、とにかくっ! あっ、あっ、あんまり調子に乗るなよっ! べっ、別にヴェトナなんて『大切な執事』でもなんでもないんだからなっ!」
「あ、じゃあ執事やめますね」
こんな感情的なお子様にはもう構ってられない。
私はクロン様に背を向けて執務室を去ろうとする。
「ダメだっ!」
すると、焦燥感の滲むその声と同時に、私の体は華奢な両腕に拘束される。
「えっ?」
そして、私の背後で、少年のとてつもなくか細い想いが溢れ出た。
「ヴェトナは、ずっと……僕と一緒にいるんだ……」
子猫が甘えるような声で、クロン様はそう言った。
「え?」
「ずっと、僕の執事なんだ……」
私の体を締め付ける力が、ぎゅっと強くなる。その様子は、拠り所を失った子猫が温もりを求めているようで、なんとも庇護欲をくすぐられる。
「やめるとか、言うな……」
「わ、わかりましたっやめませんからっ……。ちょ痛い痛い、離してくださいって……」
今、私は、過去の自分の観察力のなさに驚いている。
私の主は、こんなにも可愛いじゃないか。
「もう少し……。もう少しだけだから……」
「……お好きにどうぞ」
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