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春の魔法
「143ページを開いて下さい」
ふんわりと漂う光の中で、ひどく穏やかな声が生徒の頭上を軽やかに駆け抜けていく。
「今日は春の魔法について学びましょう」
長身の美麗な青年は少し青みがかった瞳を柔くにじませながら彼の生徒を見渡し、笑う。
彼が少し黒板に目を向けると、さらさらと勝手にチョークが空中を浮かび、絵を描いた。
淡い桃色で描かれる美しい樹木は、その存在を誇るように黒板一杯に咲き誇る。
「これが何の花かわかる人」
一様に同じ制服を着た生徒たちは競い合うようにその小さな腕を目一杯に伸ばし、彼に自己主張をする。それに青年は迷うように視線をさまよわせると、じゃあ、と一人の生徒を指名した。
「秀。」
「はい!サクラです。春の魔法の代表的な花です」
勝ち気そうな顔の少年は自信満々に答える。
きらきらと輝く漆黒の瞳は、好奇心に満ちあふれている。
少年の答えに青年は満足そうにうなずくと、口を開いた。
「さすが。花言葉は知っているかい?」
「花言葉、ですか」
そう来るとは思っていなかったのだろう、秀は口ごもる。
「……私を、忘れないで」
代わりにぼそり、と少し低い声が響く。
その声の方を青年は見やると、少し嬉しそうにうなずいた。
「よく知っているね。正解です」
彼に褒められた少女は顔をほころばせた。
少し重たい前髪からのぞくこじんまりした鼻の上には大きな眼鏡がずり落ちそうになりながら重く鎮座している。それが彼女のトレードマークであり、その眼鏡が光に反射すると七色に光ることは彼女の自慢でもあった。
世界で一つだけの彼女の眼鏡であった。
その眼鏡のつるをそわそわと触りながら少女はどもりながら言う。
「花、好きだから」
「花恋は植物にくわしいよね。僕より知っているんじゃないかな」
おどけたように言った彼に教室はひそやかに笑い出す。
まるで春の日差しのように暖かな教室の様子を水晶玉越しに見つめていた真斗は密かにため息をついた。
こうやって自分の記憶を取り出し、見てはため息をついている。
戻れない過去に、戻れない春に自分はそこから動けずにいる。
結局彼らに春の魔法を教えてあげることは叶わなかった。
彼らは元気だろうか。
生きているだろうか。
答えのわかっている問いに真斗はもう一度ため息をつく。
ぽっきりとおられてしまった杖を見つめ、真斗は全てを振り払うように首を振った。
もう、終わったことだ。
杖をしまいながら一週間前から輝き続ける指の淡い光に真斗は目をやった。
この左手の薬指に光る契約の印は一生自分を縛るという。
儚く美しい女性が、兄に全てを奪われた彼女が、提示した罰に、呪いに未だに真斗は意味がわからずにいた。
意味を与えられずにいた。
普通に考えてあり得ないのだ。
自分から全てを奪ったその弟と結婚しようなどと、思う人間がどこにいるのだろう。
それでも、彼女が望むなら。
そう思って受けたけれども、ちぎったけれども、これでよかったのだろうか。
彼女が、後悔することはないのだろうか。
それすら、奪われたということであろうか。
もう二度と、大切な人なんて現れないから、幸せになることはできないから。
全てを奪われたから。
「真斗さん。」
朱里が水晶玉に映し出される。
時間だ。
春が終わる。
穏やかな春は直ぐに終わってしまう。
戦争が始まったその日から、春なんて二度と自分にはやってこない。
だからといって、ずっといることもできない。
真斗はきゅっと唇を引き結ぶと水晶玉に触れた。
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