ー切なさの味

2/3
前へ
/71ページ
次へ
 今朝、出がけに渡されたカギをカバンから出す。それを使って家に入ると、ロクちゃんを少しかまってから、自室の戸を開けた。  だれもいない本当の静けさが、ぼくの背中をなぞる。廊下の天井を見やって、どこか感じ始めた寂しさを振り切るように戸を閉めた。  着替えをすませ、脱いだYシャツと、授業で使った体操着を持って、脱衣場へ向かった。  だれかの洗濯物もある。余計なことはするなと怒られそうな気もしたけれど、ついでだから、一緒に回すことにした。  部屋へ戻り、机に向かった瞬間に、またため息が出た。  教科書やノートを開いても、シャーペンを走らせても、三津谷さんのことが気になって集中できない。  そもそも、どうして久野さんは、好きな人の前であんな話なんかしたのだろう……?  三津谷さんが怒るに決まっているのに。  ──やっぱり。  女の子ってのはよくわからない。  ぼくは、教科書とノートを閉じた。  シャーペンを置いて時計を見る。洗濯機が止まるまでには、まだまだ時間がある。  ぼくは机を離れると、ショルダーバッグに財布を入れて、ドアノブに手をかけた。部屋を出る。  気晴らしに買い物でもしてこよう。  駅前のアーケード街にある書店へ、前から欲しかった本を探しに行って、その帰りに、どこかでお菓子を買おう。  それを考えると、なんだか楽しくなってきて、ガレージへ向かうころには、本とお菓子のことで頭がいっぱいになっていた。  自転車をスイスイと漕ぐ。  これから向かう書店には、篠原さんちへ越してくる前から何度か行ったことがあった。駅を挟んで西側が前に住んでいた地区。東側がいま住んでいる地区だからだ。  アーケード街へ行く途中には、通学路となっている大通りがある。もちろん、学校へと通ずる小路は曲がらずに真っすぐ行く。  比較的大きな交差点を曲がり、やがてアーケード街が見えてくる。  たくさんの荷物を自転車のカゴに入れ、ペダルを漕ぐおばさんたちとすれ違い、奥のほうまで進んだぼくは、目当ての書店の前で自転車を止めた。手動式のドアを押す。  二階建ての小さな本屋だけれど、ぼくは、その狭い感じが好きだ。  本棚と人との間をうまく進み、ずっと欲しかった本を手にした。パラパラと眺めてから、レジへ持っていく。  書店を出たところで、向かいに見慣れない建物があることに気がついた。  レンガ造り風な外壁。ガラス張りの大きな窓。カラフルなケーキが並ぶショーケース。  とてもおしゃれな感じの洋菓子屋さんだった。  前に来たときは、たしかここは空き店舗だったはず。  いつの間にできたんだろうと、ぼくは首を伸ばして、その洋菓子屋さんを伺った。  気づけば、ドアの前まで来ていて、ふと、ショーケースの向こうにいる女の人と目があった。そうなると、もう後戻りはできなくて、ぼくはドアを開けていた。 「いらっしゃいませ」  お菓子を買うつもりで出てきたけれど、ケーキ屋さんとは考えてもいなかったから、どぎまぎした。  懐かしさもある甘い香りがする。そのショーケースには、おいしいに違いない色とりどりのケーキ。  しかし、値段を見て、前のめりだった体を戻した。  ぼくのおこづかいじゃあ、せいぜい二個が限度だ。その二個を、わざわざ箱に入れてもらうのも……。  どうしようかと困っていたら、焼菓子コーナーが目に入った。  たくさん種類があるし、百円しないものが多かったから、いくつか選んでレジへ持っていった。  ナッツやチョコチップが入った一枚もののクッキーと、フィナンシェ。 「またお越しくださいませ」  ぼくはお店を出ると、本屋さんのところに置きっぱなしにしてきた自転車にまたがった。  初めてひとりで入ったケーキ屋さん。  さっきまでの緊張は、ペダルを漕ぐたびにうれしさへと変わっていった。  だけれどそれは、見覚えのあるガレージが目に入ったら、すべて消え去っていった。少し手前で自転車をおりて、ゆっくりと中を覗く。  ……よかった。  豪さんは、まだ帰っていない。  ガレージの奥に自転車を片づけたところで、洗濯機をかけっぱなしだったのを思い出して、家の中へと急いだ。  ショルダーバッグを肩にかけたまま、ガレージの上にあるベランダで洗濯物を干す。 「つかれた……」  下へ戻ってくると、ぼくは居間でへたりこんだ。時計を見上げれば、時刻は五時半。  そろそろ豪さんが帰ってくるかもしれない。  ぼくは、にわかに走り始めた緊張を、買ってきた本を読んで紛らすことにした。  けれど豪さんは、三十分たっても一時間たっても、帰ってはこなかった。首を傾げてまた時計を見たとき、ぼくのお腹が鳴った。
/71ページ

最初のコメントを投稿しよう!

152人が本棚に入れています
本棚に追加