ー切なさの味

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 でも、夕ご飯の焼きそばは、豪さんが作ることになっている。  焼きそばくらいなら、ぼくにも作れるんだけど、広美さんがいい顔をしない。一つ勝手なことをしちゃったから、もうこれ以上はしないほうがいい気もする。  ぼくは仕方なく、夕ご飯前だからと手をつけずにいたお菓子の袋をショルダーバッグから出した。  その匂いだけで、サクッとしていて甘い、あの感覚が口の中に広がる。  クッキーをかじった途端、ぼくの全身は、予想通りの幸せでいっぱいになった。  何度か味わううちに、甘い中にもどこか懐かしい感じがあって、手に残ったクッキーをじっと見つめた。 「……お父さんの味がする」  とくにこの舌触り。噛みごたえ。  お父さんのクッキーに欠かせなかったナッツも入っている。休日のおやつの時間は、いつもあのクッキーだったと思い出した。  ぼくのお父さんはパティシエだった。  物心のついたころから、お父さんが作ってくれたお菓子はそばにあって、ぼくはその中でもクッキーが大好きだった。  ヘーゼルナッツやクルミの入った大きなクッキー。お父さんと一緒に作ったこともあって、一生忘れられない思い出のお菓子だ。  二度と食べられないと思っていたのに、こんな近くにあったなんて……。  ぼくは、嬉しさとおいしさを噛みしめながら、買ってきたすべてのお菓子を口に運んだ。  食べ終わり、余韻にひたりきってから気づく。  ……結構、お腹がふくれてしまった。  篠原さんちのことだから、焼きそばを大量に出されたりして……。食べきれなくて、それを怒られたりしたらどうしよう。  薄暗くなってきた部屋の灯りを引っ張り、ぼくは時計を見上げた。  もうすぐ七時だ。夕ご飯の時間はとっくに過ぎている。  というか、こんな時間まで帰ってこないなんて、もしかしなくとも……すっぽかされた?  そんな予感がよぎった瞬間、帰ってくる気配のなかった安堵感に、間の抜けたようなわびしさが被さった。  障子戸の向こうから、ロクちゃんの吠える声が聞こえた。  ぼくは、俯かせていた顔をパッと上げる。  そういえば、ロクちゃんのご飯はどうしたらいいんだろう。散歩も連れていってない……。  ぼくは心配になって、ロクちゃんの様子を見に、廊下へと出た。  そのときだった。  廊下の先にある玄関の戸が、タイミングよく開いて、「ただいま」と言う低い声が聞こえた。 「あ、おかえりなさい」  ゆうべは、ぼくが起きている時間には帰ってこなかった一清さん。カバンを上がりがまちに置くや、とても厳しい表情をした。 「人夢、豪はどうした? まだ帰ってないのか?」  それについては正直、ぼくのほうが訊きたいぐらいだった。  ネクタイをゆるめながら靴を脱ぐ一清さんを、ぼくはただ見つめるだけ。  そこで、また玄関の戸が開いた。  やっと帰ってきた豪さんは、一清さんを見て少し驚いていたけれど、すぐにいつもの顔に戻した。 「んだよ兄貴。早く帰ってくるなら、メールでもしてくれればよかったのに」 「……豪、いま何時だと思ってる」  靴を脱ごうとした豪さんと、厳しさを増した一清さんの視線がかち合う。  それを見たぼくは、ますます身を固くした。  張りつめた空気が流れる。 「何時って……七時半?」  家に上がった豪さんは、一清さんをバカにするように鼻で笑った。  一清さんの眉がぴくりと反応した。豪さんの肩をがしっと掴む。 「そんなことを言っているんじゃない」 「あ? なにが?」  不機嫌の頂点にいるような豪さんの声。  深いため息をついた一清さんの作る間が、ぼくにはひどく長いものに思えて仕方なかった。 「──お前、きょうメシ作れって広美に言われたんだろ」 「ああ、言われたよ。だから、せっかくのデートを早く切り上げて帰ってきてやったんだろうが」 「早くって、これのどこが早いんだ。夕飯の時間はとっくに過ぎてる。……いいか、お前は兄貴になったんだ。もう少し責任を持って弟の面倒を見ろ」  もはやぼくは、床とにらめっこするしかなかった。  ただただ、この時間が早くすぎることを願う。  しかし、神様は無情だった。 「べつに、俺は弟がほしいなんて望んだ覚えはねえし、だいいちそいつはホントの弟じゃねえだろ」 「豪!」  天井を突き刺さんばかりの鋭い声がしたあと、玄関の戸が激しい音を立てた。  びっくりして肩をすくめたぼくの目に映ったのは、豪さんのワイシャツの襟ぐりを掴んでいる一清さんだった。  さっきの声といい、あんなに感情をあらわにしている一清さんは初めてで、ぼくは思わず叫んでいた。 「もうやめてください」  拳をさらに握りしめ、声を振りしぼる。  豪さんに吐き捨てられた言葉より、別人のような一清さんのほうが、ぼくにはショックだった。 「ぼく、ご飯のことはもういいです。ぜんぜん気にしてないですし、それよりも、二人がそんなふうにケンカするほうが嫌です」  そして、その原因のすべては、ぼくがこの家へ来たことにある気がして、いたたまらなくなった。 「あの……ロクちゃんが散歩に行きたがっていたから、ぼくちょっと行ってきます」  ぼくは、二人と目を合わせることなく頭を下げ、納戸からロクちゃんの綱を取ると、一目散に家を出た。
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