ー雨宿り

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「いま、靴も乾かしているから」  焼きそばを食べ終わるころ、いつの間にかキッチンからいなくなっていた先生がドアを開け、リビングへ入ってきた。  ぼくが箸を置くと、空の皿を先生は持ち上げた。 「お口に合ったかな?」 「とてもおいしかったです。ごちそうさまでした」 「篠原のとこはあれだな。一清も広美も料理が上手いから、お母さんがいなくても、その辺は苦労いらずで安心だな」 「はい。でも、料理は、ぼくも得意です」 「へえ。中学生で料理が得意って、なかなか言えないぞ」  キッチンで水の出る音がした。  焼きそばを食べているあいだも、目の前の大きなテレビに夢中になっていたぼくだけど、ふと、テーブルの端にあるノートパソコンを見た。  閉じてあるフタの上に数枚の紙が乗っている。  よく見てみれば、なにかのイラストが描かれてあって、思わずぼくは手にしていた。  お菓子のレシピだった  殴り書きに近いのに、専門用語も織り交ぜ、かなりこまかく書き込まれてある。  レシピは、全部で四枚あった。  一枚目はミルフィーユ。二枚目はショコラオランジェ。三枚目はかぼちゃのチーズタルト。  そして四枚目は、モンブランだった。  その名もトムズモンブラン。ぼくとおんなじ名前がつけられてある。  ぼくは、じつはモンブランが苦手だ。  栗があまり好きじゃなくて、お父さんの作るお菓子で唯一、モンブランは口にしたことがなかった。  でも、ここに書かれてあるのは、栗の代わりにさつまいもを使うらしく、ぼくでも食べられそうだった。 「篠原、制服乾いたぞ」  背後から飛んできた声に、ぼくはびっくりして、とっさにレシピをテーブルの下に隠した。 「はい、すみませんっ」 「脱衣場に置いといたから」  ぼくが背もたれにしていたソファーに腰を下ろし、先生はリビングのドアを指さした。さっと長い足を組む。  ぼくは頭を下げると、急いで脱衣場に向かった。  まだ乾燥機が動いていて、その下にある脱衣カゴの中に、きっちりとアイロンのかかっている制服があった。  ぼくは着替えながら、さっきのレシピを思い浮かべた。  先生が書いたにしては本格的だ。けど、先生も料理が好きみたいだから、趣味が高じてとか、ありえなくはない。  ぼくは、脱いだものを丁寧に畳み、洗面台を見た。 「あ、そっか」  先生は、結婚していないと言っただけで、一人暮らしだとは言わなかった。もしかしたら、これから奥さんになる人と住んでいるのかもしれない。  このてのアパートは家族で住む人が多いって聞く。  そして、その一緒に住んでいる人が、きっとパティシエさんなんだ。  ぼくがリビングへ戻ると、ソファーに座っていた先生が、あのレシピを眺めていた。  ちょっと戸惑いつつも、畳んだトレーナーとスラックスをローテーブルに置いて、その場に正座した。まだぼくの存在に気づかない先生の、眼鏡の向こうの瞳を覗いた。 「ああ、着替え終わったか」  レシピをテーブルに置いて、先生はローボードの時計を見た。 「もうすぐ一清が来るかもしれないな」  時計の針は九時半をさしていた。  ぼくは、ローテーブルのレシピに視線をやって、もう一度先生を見た。 「あの、勝手に見ちゃってすみません。もしかして、先生が書いたんですか?」 「え?」 「そのお菓子のレシピです」 「ああ。いや、俺じゃない」  と、先生は小さく笑った。 「じつは、俺には同居人がいるんだ。それはそいつのだよ」  あ、やっぱり──と、ぼくは微笑んで、レシピを手にした。 「その方って、パティシエさんなんですか?」 「そう。よくわかったな」 「はい。ぼくの父もパティシエだったので。こういう走り書きレシピがたくさん家にありました」 「お父さん……?」 「はい、行田のほうの。それにしてもびっくりしました。これに、ぼくの名前がついていたから」  小林先生が膝を乗り出してきて、まばたきもせず、ぼくを見つめている。 「……先生?」 「そのレシピは、たしか同居人が憧れの人から貰い受けたものだ」 「はい」 「ちゃんと見たのは俺も初めてで……。篠原、いや……行田か。もしかして、きみのお父さんは──」  先生の声に被さるように、玄関から呼び鈴が聞こえた。  ぼくの心臓は一気に跳ね上がり、そのまま早鐘を鳴らす。
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