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停滞する人生
いつからだろうか。期待というプレッシャーを与えられなくなったのは。
いつからだろうか。社会的評価も出世欲も枯れ果てて、現状維持で満ち足りるようになったのは。
昼休みの休憩室。新プロジェクトにかける中堅や、プレゼンを控えて頰を紅潮させている若手達の熱気に気圧され、ちっとも気が休まらないから、缶コーヒーを片手に屋上に逃げる。ここでは、絶滅危惧種となった喫煙者達が三々五々たむろしている。彼らの目を避けるようにコソコソと給水塔の影に回って、独り静かにプルトップを起こした。
「やれやれ……」
勤続25年。3年前、閑職の部署に配属されて以来、俺は可もなく不可もなくの平均点の人生を歩いている。与えられた仕事はこなす。でも、要求以上の成果は発生しない。大きな利益を生み出さない代わりに、これといった損失も作らない。無難で、つまらない人材だ。だから、年齢相当の役職――課長にまでは出世した。けれど、そこまで。同期や後輩が1つずつ階段を上っていくのを、俺は踊り場からずっと見上げている。ここから先は、勾配の急なきつい階段だ。段差もまちまち、踏み外せば落ちるような罠もある。俺には、壁にへばり付きながら上る根性も必要性もなかった。
見合いでまとまった妻と2人、親が残してくれた古い持ち家での生活。望んだけれど、子宝には恵まれなかった。教育費も住宅ローンとも無縁で、がむしゃらに稼がずとも余裕のある暮らしを送れている。定年まで働けば、老後の蓄えですら、それなりに貯まる算段だ。こんな生温い環境が、現在地に胡坐をかく安穏とした生き方を許してきた。
「母さんが、足をね、骨折したらしいのよ」
「そりゃ、大変だな」
「入院中は、お義姉さんが病院に顔出してくれるんだけど、退院したら、私がしばらくの間、面倒を見ないといけないと思うのよね」
妻、理美の実家は、隣町にある。親父さんを早くに亡くし、実家にはお袋さんが1人で畑を弄りながら暮らしていた。同じ町の外れに彼女の兄一家が住んでいるが、ウチとは違って共働きだ。育ち盛りの子どもも2人いる。入院中の面会は任せられても、退院後の日常生活の世話までを押しつけるのは申し訳ない。理美の心情は、よく分かる。
「だけど、お前だってパートしてるだろ。どうするんだ?」
子どものいない我が家は、経済的には全く困窮していない。けれど、日中、家に独りで缶詰になるのは耐えがたいというので、週に3日、家事に差し支えない4時間だけのパートを10年近く続けている。
「リーダーに相談したら、介護休暇制度っていうのがあって、最長3ヶ月は休めるらしいの。母さんの状態が良くなったら、復帰できるわ」
「そうか」
食卓で向かい合って茶を啜る。普段、会話の多い夫婦ではなかったが、こんな時間がしばらく無くなるのかと、不意に寂しく思った。
「母さんのことは、あなたの手伝いはいらないけれど、私がいない間、家事を……」
結婚して、14年。長らく解放されていた厄介なルーティンに、俺のプライベートな休息時間が削られる。面倒なミッションが与えられるのだが、考えようによっては独身時代以来の自由な時間が出来る訳で。先刻感じた寂しさは何処ヘやら、夏休みを前にした子どものような気分が生まれた。
「やるさ。仕方ないだろ」
「ごめんなさいね。毎日、連絡するから」
妻は本当に申し訳なさげに頭を下げた。
「いや、いい、いい。お前だって疲れるだろうさ。俺のことは気にせず、行ってくるといいよ」
俺は慌てて頭を振った。彼女には悪いけれど、せっかくの制約のないバケイションを監視されるみたいで煩わしい――なんて本音は言えないが。
こんな会話を交わしたのが、半月前だった。
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