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驚いた。こんな場面で冴島君の素の表情を見ることになるとは。
草埜常務とどんな関係なのかは知らないが、常務には、心を許しているのだなと思った。
常務のおかげでまったりと楽しい時間を持てたが、とはいえそんなに長居するわけにもいかず、ではそろそろと挨拶をする。
「引き止めて悪かったね、入山さん」
「いえとんでもないです。コーヒーごちそう様でした」
「じゃあ、馨介君もまた」
「はい、また」
馨介君、て言った? 言ったよね!?
草埜常務と別れ、二人揃って建物の外に出た。すでに、午後四時を回っている。
明日から七月という、まだ梅雨の最中。
今にも雨が降りそうな、灰色の薄暗い空だ。
気になることは多々あるが、とりあえず、冴島君も会社に戻るのだろうか?
「会社戻る?」
先に言われてしまった。
「戻るよ」
「電車で?」
「そうです」
それならと、冴島君がそこから少し離れたコインパーキングの方を指差した。
「車で来てるから」
「え、いや私は、」
「帰るんだろ? これから雨降るぞ」
「…………ありがとうございます」
ありがたくない、断る理由はないけれど、気楽に一人で帰りたい。
いまいちな反応で微妙な返しをする私を、何言ってんの? とシレッとした顔をして、冴島君は先に歩き出した。
困惑しながらその後ろを追いかける私の方を、冴島君は振り返らない。
周りに気を配り、皆に丁寧に対応をするくせに、私だけ扱いが雑すぎないかとちょっと思う。歩くの早いし。
駐車場にはすぐに到着し、見慣れたネイビーの社用車が停まっていた。
社用車だから誰もが利用する車なのに、助手席のドアを開けるとなぜかいい匂いがする。
清涼感のある、グリーン系の。
これ、冴島君の近くに行くとたまに感じる匂いだ。
「……こわ」
「なに? 早く、シートベルトして」
会社に戻るまでの約三十分、長いとも短いともいえない、私にとっては少し息が詰まりそうな、二人だけの時間が始まった。
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