深夜零時の客

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 人通りの少ない裏通りの雑居ビルの地下には、一軒の小さなバーが今夜も看板を掲げていた。  それほど繁盛しているわけではないが、まったく客が来ないわけでもない。少ないながらもそれなりの常連がついていて、ある意味では安定した経営状態といえた。  店内は照明を抑えており、音楽は何もかかっていない。手狭な室内ではあったが、静かで落ち着いた雰囲気を醸し出している。  殺風景な壁に掛かった時計が午前零時の十分前を指し、その隣りの小さな液晶テレビからは微かな音声とともにニュース番組が流れている。  カウンター席に座る一組の若い男女以外に客はいない。  カウンターの奥でこの店のマスターである松方静夫がシェイカーを振り、グラスにマリンブルーのカクテルを丁寧に注ぎ入れた。照明に照らされ、松方の手の甲にある深い傷痕が陰影の中に浮かび上がった。  松方は差し向かいに座る女の前にカクテルを差し出した。 「きれーい」  真っ赤な顔でカウンターに頬杖をついていた女がとろんとした目でグラスを手に取るといっきに飲み干す。  その隣で困惑の表情を浮かべていた男が女からグラスを取り上げて諭した。 「おい、いいかげん飲みすぎだぞ」  女は男の肩にしなだれかかり「あはは、だいじょぶだってえ」と笑った。  どう見ても大丈夫ではないと呆れた男は松方の顔を見て言った。 「マスター、お水くれる」  松方は微かに頷くとグラスにミネラルウォーターを注いで差し出した。  そのとき不意にテレビの画面が切り替わり、一人の男の似顔絵が映し出された。男性のアナウンサーがどこか冷めた低い声で原稿を読み上げた。 「……この容疑者と思われる男の行方も依然として不明のまま、深川強盗放火殺人事件は本日の午前零時で発生から十二年という月日が経過します……それではこれまでの事件の経緯を振り返ってみましょう……」  女は半分ほど水を残したグラスを手にしたまま、ぼんやりとテレビを眺めていた。  画面には全焼した家屋、被害者の写真、証言する近所の主婦など事件当時の映像が次々と映し出された。  松方は顔を伏せ、グラスを黙々と磨いている。  時を刻む時計の針の音が店内に微かに響く。  女が何かに気がついたように松方の顔を興味深そうに覗き込む。 「あれえー、マスターの顔、あの犯人の似顔絵に似てませんかあ?」  松方がグラスを取り落としそうになり、思わず鋭い眼光で女を睨む。  男が女を抱きかかえ、松方に頭を下げる。 「す、すいません。こいつ悪酔いしてるもんで……ほら、しっかりしろ! もう行くぞ」  男がカウンターに壱萬円札を置くと、女に肩をかし、ともにふらつきながら店を出て行った。  客がいなくなり静かになった店内で、松方は深いため息をつくとリモコンを取り、テレビを消した。グラスを片付けながら、壁の時計を見上げる。時刻は午前零時まであと五分。  松方は回り続ける時計の秒針をしばしじっと見つめた。グラスを持つ傷のある手が小刻みに震え始める。蛇口からシンクに流れ続ける水を止めたとき、ドアが開き、一人の年配の男が入ってきた。その姿を目にした途端、松方は手にしていたグラスを床に落としてしまった。  グラスが床の上で音をたてて砕けた。  男は松方に向かって微笑むと、カウンターのスツールに腰掛けた。どこか挑戦的とも言える眼差しで松方を凝視している。  松方は男から目をそらし、床に散らばった破片を片付けようとして手を切ってしまった。指から鮮やかな赤い血が流れる。床に滴る血を眺めていると松方の脳裏に過去の情景が浮かんだ。
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