接近

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接近

 私たちはいつの間にか横浜まで来ていた。車を降り、外の空気を吸った。少し冷たい風が心地良かった。夜の海を眺めながら、私たちはまた語り合った。 「ラン、ありがとう。なんか、元気出てきた。」 「良かった。」  ランはひと言だけ呟くと、また私の頭の上に、ポン、と手を乗せた。今までにないくらい私の心拍数が上がった。こんな気持ち、一体何だろう。私は動揺を隠せなかった。 「い…、一応これでも私の方が年上なんだからね。ちゃんと覚えてる?」 「覚えてるよ、ちゃんと。俺が一発で言い当てたんだよね。でもさ、俺、エリカのこと年上だって特に意識したことはないんだよね。ダメ?エリカは気にするタイプ?」 「べ、別に私も気にしないけど…。」 「じゃあいいじゃん。」  ランの答えが、私に自信をくれた。五つも年上の私なんかと一緒にいても楽しくないんじゃないかという不安を一気に取り除いてくれた。でも、それと同時に、ホストであるランにとっては、私なんかそこらへんの客と同じようにしか思っていないのでは、とも思った。 「ラン、あのさ、私、もう大丈夫だよ。ありがとう。私の為にいろいろしてくれて、嬉しかった。仕事休ませちゃってゴメンね。私、もう平気だから。ホントにホントに、もう大丈夫。」 「だからそれが大丈夫じゃないんだって。ホントに大丈夫な人は、大丈夫って自分で言わないから。それに、そんな必死に言い訳しないし。」  やっぱりランには隠し通せない。というより、私は隠すのが下手なのだろう。なんて不器用なんだ。とても恥ずかしい気持ちになった。 「エリカ、もし抱えてることあるなら、俺にも半分分けてよ。言ったろ?エリカの力になりたいんだって。」  私は我慢していた涙を抑えきれなくなった。これ以上、ランの前では強い自分を演じ続けることは出来ないと気付いた。    私は、ランに全てを話した。  毎日繰り返される部長からのパワハラ、強制的に一緒に過ごさなければならない金曜の夜、会話の盗み聞き、そしてあの一夜、脅迫…。その間に元カレに急に別れを切り出されたことも、思い出す度に体が震えたが、その度にランが私の頭の上に手を乗せて、私の心を落ち着かせてくれた。全てを話し終えると、どこか心がふっと軽くなったのを感じた。 「エリカ、こんなに辛かったんだね。怖かっただろ…。話すの勇気いるよね。頑張った。話してくれてありがとう。」  ランの表情が悲しげに変わっていった。 「もうこれからはきっとそんな辛い思いをしなくてもいいはずだから。俺に半分分けてくれてありがとう。辛い時、こうやって俺にも分けてよ。エリカの心の不安、軽くしてあげるからさ。」  私は黙って頷いた。ランの優しさがとても温かかった。私の涙が止まるまで、ランは黙って私の隣に居てくれた。  私の心が落ち着きを取り戻した頃、ランが口を開いた。 「横浜はさ、俺の生まれた街なんだ。」  ランが自ら自分のことを話し出した。それは初めてのことだった。私はあまりにも驚き過ぎて、何も返せなかった。 「高校生までこの街で暮らしてた。その後は福岡行って中州でホストしてて、そしたらある日、今俺が働いてる歌舞伎町のホストクラブのオーナーにスカウトされて、今に至る、ってわけ。」  どこか懐かしそうにランが教えてくれた。 「俺もさ、いろいろあるんだ、毎日いろいろ。何か嫌なことあったりしたら、こうやって横浜までドライブ。自分の生まれ故郷に来ると、原点に帰るっていうか、パワー貰えるんだよね。それでまた明日から頑張れる、みたいな。」 「そうなんだ。ランがいつも貰ってるパワー、今日は私も貰っていいかな?」 「もちろんじゃん。その為にここに連れてきたんだから。んー、ただ、ここはエリカの生まれ故郷ではないと思うけど、まぁ、そこは許してよ。」 「ううん、ありがと。」  私はそう言って、大きく風を吸い込んだ。まるで本当にパワーを貰っているかのように。  ランが自分の生まれた街からパワーを貰っているという話を聞いて、ふと私も振り返ってみた。そういえばここしばらくは実家には帰れていないことに気付いた。そうだ、明日電話してみよう、そんな気持ちにさせてくれた。  ランのことを、ほんの少しでも知ることが出来て嬉しかった。一気に距離が縮まったような気がした。もっともっとランのことを知りたいと思った。それと同時に、ランにもっともっと私のことを知って欲しいとも思った。まだ出逢って間もないのに…。  長い間、私たちは海を眺めていた。心が洗われた。潮風が、私の心を前向きにしてくれた。今日、ここへ来て本当に良かった。また明日から頑張れる、強いパワーが生まれた気がした。 「エリカ、寒くなった?」 「あ、うん、でも少しだけね。大丈夫だよ。」  そう答えた瞬間、背中からランに抱き締められた。私の鼓動が大きく鳴った。 「ゴメン、俺、今日上着とか着てないからさ、エリカに何も貸してあげられないや。だからこれで我慢して。」  私のドキドキが止まらなかった。今、私はランに包まれているのだ。ランにこの高鳴る鼓動が聞こえてしまっているのかと思うと恥ずかしい。私は後ろを向くことは出来なかった。 「あー、めっちゃあったかーい!」  ドキドキする私をよそに、ランは無邪気に言った。 「実は俺も、ずっと寒かったんだよね。冬の海辺、なめてたわ。」  ランが何を言っても、私はただただ黙って頷くことしか出来なかった。きっと私の顔は真っ赤になっているに違いない。そんな顔は見せるわけにはいかなかった。  どうして私はドキドキしているのか。この感情は何だろう。胸がキュンとなる。もしかしてこれって…。いや、きっと違う。でも、この抑えられない気持ちはやっぱり…。私はぐるぐると自問自答を繰り返した。 「エリカ、車、戻ろっか。」 「あ、うん、そうだね、そうしよっか。」  ランはそう言うと、私から離れ、車が停めてある方へ歩き出した。案外あっさりと歩き出し、私は拍子抜けした。そうか、ランは私に対して別に特別な感情はなく、決してドキドキしている訳ではなかったのだ。そう思ったら、さっきまでの自分がとても恥ずかしくなった。年甲斐もなく、年下男子にときめいてしまうなんて、私は何をやってるんだろう。ホント、バカみたい、私。少し自己嫌悪に陥った。  車に乗り込み、ランはまた車を走らせた。たわいもないことで私たちは笑い合った。もう、どこを走っているのか、どこへ向かっているのかもわからなかった。それでも全然良かった。ランと同じ時間を共有しているのなら。 「ねえ、ランはどうしてホストになろうと思ったの?」  聞いても良い質問かどうか、少し不安だったが、思い切って聞いてみた。 「んー…。何でかな。ほら、二十歳を目の前にした十代の頃って、キラキラした華やかな世界に憧れる時期じゃん。だからかな。」  何とも抽象的な言い回しだった。きっと、本当の理由は他にあるのだ。ランはそれを言いたくないのだと気付いた。 「ゴメンね、変なこと聞いて。話したくなったら話してよ。もう私から聞いたりしないから。」  私は話題を変えて、その場の空気を取り替えようとした。 「エリカ、ゴメンな。ありがと。」  ランは、いつものようにはぐらかすことはなかった。真っ直ぐなランの返事が嬉しかった。  車はひたすら走った。あてもなくどんどん進んだ。それでも私たちの会話が途切れることはなかった。沈黙を避けるように、私たちは夢中で語り合った。  気付けば随分遠くへ来たようだ。コンビニに寄って、温かいコーヒーを買った。車に乗らず、外の空気を感じながら、私たちはコーヒーを口にした。ふと見上げてみると、少し空が明るくなっていた。もうすぐ朝が来る。 「エリカ、もう今日は土曜日。あと少しで日が昇る。金曜の夜、乗り越えたじゃん。よくやった。頑張ったな。」  ランはそう言うと、私の頭の上に手をポン、と乗せた。私はまたキュンとした。  ランは、私が怖いと言った金曜を忘れさせるために、朝が来るまで一緒に居てくれたのだと分かった。ランの心配りが身に染みた。思わず涙が込み上げた。こんな私の為に、いろいろなことを犠牲にしてまで。ランには感謝の気持ちでいっぱいだった。 「帰ろっか。」  ランは笑顔で車に乗り込んだ。私も頷いて車に乗り込んだ。  車は徐々に見慣れた景色の中に入った。空はすっかり明るくなっていた。眩しい朝日が差し込んだ。完全に私は金曜の夜を乗り越えたのだ。何故か私は、どこか自信がついた。  前日に私とランが待ち合わせをした場所に戻ってきた。私は車を降りて、ランに感謝を伝えた。 「ラン、本当にありがとう。私を救ってくれてありがとう。ランのおかげだよ。」 「俺は何もしてないんだって。エリカが自分の力で乗り越えたんだよ。」  またいつか会おうと私たちは約束を交わし、別れを告げた。ランの車は、都会の街並みへ吸い込まれるように走り去った。  私は、ランへの想いで溢れていた。この気持ちは何なのだろう。気付いているのに気付かないフリをしている私がもどかしかった。    これって、もしかして…
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