深潭

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深潭

 美しい男性は、抱えていたウサギを放し、また私をじっと見つめた。微動だにせず、こちらを見ている。もしや、人間ではない別の何かが私に見えてしまっているのか?この樹海の神か?それとも、私自身がもうこの世から消えてしまっているのか?  少しパニックになる私をよそに、彼は落ち着いて佇んでいた。月明かりに照らされ、彼の美しさが一層際立つ。女の私が嫉妬するくらいキレイだ。こんなにも美しい彼が、どうして自分を終わらせようとしているのか、私には全く見当も付かなかった。何が彼をそうさせてしまったのだろうか。 「ねえ、お姉さん、何でここに来たの?」  彼が言葉を発した。私は驚きを隠せなかった。 「あ、えっと、あの…」 「わかってる。俺と同じだろ?」  全てお見通しといった態度だった。当然だ。こんな真夜中にこの樹海にいるということは、そういうこと以外に他ならない。 「俺はここからもう少し先へ行く。お姉さんはどうすんの?」 「私は…、じゃあ、私ももっと先へ行く。」 「そう。」  彼はぶっきらぼうにそう言って歩き始めた。私も彼に続いて歩いた。  決して彼の後を追っているわけではないのに、何故か彼の後ろを歩きたくなった。彼もそれを拒むことなく歩き続けた。私たちは、終わりに向かって無言の行進だ。  しばらくして、雨が降ってきた。あんなにキレイだった月が雲に覆われていたことにも気付かず、私たちは夢中で歩いていたのだ。  彼は急に立ち止まり、空を見上げ、雨に打たれた。 「ちょうどいい。これでいける。」  小さな声で囁き、また歩き始めた。 「ちょうどいいって、どういうこと?」  私は彼に問いかける。でも、返事は返って来なかった。また黙って彼の後ろに続いた。    雨に濡れ、薄着の私はすっかり体が冷え切っていた。時折吹く風が滲みる。彼も私と同じくらい薄着だから、きっと体が冷え切っているはずだ。しかし彼はそんな素振りは一切見せず、ひたすら歩く。その姿はとても勇敢だった。  再び彼が立ち止まった。小さな水溜まりが広がり、その上に彼は仰向けで寝転んだ。 「俺、ここにするわ。」  ここを終わりの場に選んだ、という意味だと悟った。 「お姉さんは、どうすんの?」  私は何も答えられなかった。急に頭が真っ白になった。今ここで、私の目の前で一人の人間が、自らの手で自分を終わらせようとしている。それを目の辺りにして、どこか悲しい気持ちになった。何でそんなことするの?って。でも、そういう私だって、私の手で私を終わらせようとしにここへ来たはずなのに。 「何も考えてないの?だったらお姉さんもここにすれば?」  そう言って彼は、私が隣に居ることを許してくれた。まるで私の心の中が見透かされたようだった。私は彼と同じ小さな水溜まりに横になった。  雨が痛い程顔を強く打ちつける。気温もかなり下がってきた。もう氷点下だろうか。容赦なくどんどん私たちの体温を奪っていく。低体温症からの終わりを迎えるパターンか。 「ねえ、知ってる?人間って、体温が33℃になると意識が朦朧としてくるんだ。28℃になったら意識は無くなる。直腸温度が25℃を下回ると、内蔵の機能が全て止まって、あとはおしまい、ってわけ。」  彼は淡々と語った。それにしても、詳しすぎる。ちゃんと調べていたのか。 「じゃあさ、お姉さんこの話知ってる?…何か…お姉さんって呼ぶの面倒。名前、何?」 「エリカ。」 「そっか。じゃあエリカちゃん。この樹海に住んでるウサギの言い伝え、知ってる?」 「ウサギ?知らない。って、貴方は名前何ていうの?人には名前聞いといて、自分は名乗らないつもり?」 「ゴメンゴメン。俺は、ラン。」 「ランっていうんだ。ステキな名前。」 「っていう名前でホストやってた。」  本名は明かさないつもりだと勘付いた。今、終わりが来るというのに、ズルい。問い詰めても無駄だとわかり、私は彼をランとして受け入れることにした。 「あ、あと、ちゃん、付けなくていいから。エリカでいいよ。」  ちゃん付けで呼ばれると、部長を思い出してしまう。最後の最後まで頭の中に部長がいることは、私としては許せない。記憶から抹消する為にも、これだけはやめて貰わなければならない。 「俺よりお姉さんなのに、呼び捨てしていいの?」 「あのねぇ、何で私が貴方より年上だって言い切れるの?わからないでしょ。」 「大学卒業して、入社三年目ってとこでしょ。25くらい?」  全くその通りだった。ランは、恐ろしい程、人を見抜く力が強い。 「俺は二十歳。じゃあ呼び捨ていいんだな?」  私は快諾した。正直、今は年齢なんてどうでも良かった。    彼はウサギの言い伝えを話し始めた。 「この樹海には、一羽のウサギが住んでて、それはこの樹海の神の遣いと言われてるんだ。ここには自殺志願者がたくさん来る。樹海に足を踏み入れて、もしそのウサギに出会ったら、それは神からのお告げなんだって。まだ死ぬな、っていう。」  そういえばさっき、私たちはウサギを見た。もしかして、あれは、神からのお告げなのか? 「俺たちさっきウサギに出会ったけどさ、樹海のウサギの言い伝え、エリカは信じる?」 「えっと…わかんないよ。」 「俺は信じない。神だか何だかわからないけど、俺の人生は今日、ここで終わらせる。誰が何と言おうと、もう決めたから。」  ランの強い意志が垣間見えた。勇敢な姿が輝いていた。私は黙って頷いた。 「ウサギってさ、寂しくなったら死んじゃうんだよね…。」  私は何気なく呟いた。 「ああ。…知ってる。」  ランが寂しげな声で答えた。  今ここに居る私たちがウサギだったのかもしれない、そう思った。  雨は降り続いた。水溜まりが徐々に深くなってきた。体の震えが止まらなくなり、自分の体温が下がっていくのを感じた。隣のランも、体が震えている。このまま私たちは終わりに向かっているのだ。  さっき会ったばかりのラン、彼のことは何も知らない。ホストをやっていたことくらいしか知らない。それさえ本当なのかもわからない。そんな人の隣に横になり、一緒に終わりを迎えようとしていることが不思議だった。どうせ終わりが来るなら、もう少しランのことを知りたいという欲が生まれた。 「ラン、起きてる?」 「ん…起きてる。」 「ランは、どうしてここに来たの?」 「だから、エリカと同じだよ。」 「そうじゃなくて、どうして終わりにしようって思ったの?」  私はランの横顔を見つめた。ランは天を真っ直ぐ見つめていた。 「話したくなったら話す。」  そう言って、私の方を、チラッと見た。キレイな瞳に私はドキッとした。何も知らない彼に、また心を奪われそうになった。  話したくなったら話す…。でも、私たちはもう間もなく終わりを迎える。ランの真実を聞く日なんてやって来ない。ランも初めから、何も知らない私なんかに話すつもりはないのだ。 「エリカは、どうなの?」  逆に質問されてまた驚く。私は咄嗟に返した。 「話したくなったら話す。」 「何だよそれ、俺と同じじゃんか。」  ランはそう言って少し笑った。  その後もお互いに質問し合った。その度に答えは「話したくなったら話す。」ばかり。どうでもいい意味のないキャッチボールをして私たちは笑い合い、同じ時間内を共にした。何だか久々に楽しいと思えた。ついさっき出会ったばかりなのに。  それから、ランの笑顔をたくさん見ることができた。ウサギを抱えていたあの時は、悲しげな表情で強ばっていたのに。もちろんその時にも美しいと感じたけれど、笑っている時のランは、より一層美しかった。  ランの笑顔はきっと多くの人たちを幸せにできる、私はそんなパワーを感じた。でも、もうこれでおしまいになる。何だか勿体ない。 「こうやってどうでもいいようなことで笑ったのって、何年ぶりかな。」  ランが呟いた。ランはほんの少しだけ、悲しげな笑みを浮かべた。 「私も、同じだよ。ずーっと長い間全然笑ってなかったんだって、今気付いた。」 「俺たちって、似た者同士なのかもな。」  ランはじっと私を見つめた。私も、ランを見つめ返した。きっとそう、私たちはどこか似ている。 「もっと早くエリカと出会いたかった。もっと違う場所で、もっと違う状況で、出会いたかった。」  雨に打たれていても、ランの目が潤んでいるのが分かった。ランの涙が流れた。思わず私は、ランの右手を握った。 「ありがとう。最後の最後を、ランと一緒に過ごせて、本当に良かった。」 「ありがとう…。」  擦れた声でランはそう呟くと、ゆっくり目を閉じた。私もゆっくり目を閉じた。  雨は私たちを終わりへと運ぼうとしている。体が完全に冷たくなった。でも、不思議と繋いだ手だけはぬくもりを感じていた。  意識が朦朧としてきたのか、眠気だろうか、もう何が何だか分からなくなってきた。体を動かすことも、声を出すことも出来ない。これで終わりだ。これで、楽になれるのだ。全てのことから解放される。もう何も恐れることはない。やっと私が待ち望んだ終わりがやって来る。  先に逝く私をどうか許してください。みんな、ごめんね。今までありがとう。私は心の中で叫んだ。  走馬灯のようにこれまでの光景が蘇った。私の人生、これで完結。いろいろあったけれど、なかなか中身の濃い、充実した人生だったように思う。もう、悔いはない。あとはその時を待つだけだ。  私は今、ランと一緒に、終わりのない闇の中へと旅立つ。
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