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隔離
体が温かい。ふわふわして浮いているかのような感覚を覚えた。これはもしかして、終わりを迎えた私の魂が浮遊しているのか。それとももう私は天国にいるのだろうか。
ああ、これで何もかもから解放されたのだ。楽になったのだ。そんなことを考えていたら、目が覚めた。
私はベッドに寝ていた。腕には点滴が繋がっていた。これはどういうことか、すぐに理解は出来なかったが、ここが病院だということだけはわかった。この部屋には私一人だった。
何故私は病院にいるのだろう。あの日、夢でなければ、私はランと二人で終わりへ向かったはずなのに。誰かが助けてくれたのか、それともランと出逢ったこと自体が幻だったのか。理由をただひたすら探した。
しかし、どうやっても見つからない。私は気が狂っているのか、もう何が何だか分からなくなった。起き上がろうとしても起き上がれない。私の腕と足はベッドに結び付けられていた。ますます状況を飲み込めない。私はあれこれ考えるのに疲れ、理由探しをやめた。
窓の外に目を移した。銀杏の葉がひらひらと舞い散り、キレイだった。そういえば、ランと一緒に選んだあの場所も、銀杏の木の下だった。あれは私の妄想だったのかもしれない、そう思うことにした。
ふと私は窓に違和感を覚えた。鉄格子が張られている。そうか、ここは閉鎖病棟だ。私はあの時誰かに助けられたのだ。自殺志願者イコール精神疾患と診断されてこの病棟に隔離されたのだ。これで全て理解できた。いろいろなことが一つに繋がった。それならそうと、私は何も考えないことにした。このままずっとここに居てもいいとさえ思った。
全てを理解してからどれだけの時間が過ぎたのか、知らないうちに一人の看護師が部屋に入ってきた。
「あ、お目覚めになったんですね、良かった。ご気分はどうですか?」
看護師は、特別気を遣うこともなく、根掘り葉掘り追求することもなく、ごく普通に私に接してくれた。それがとても有り難かった。
「あの、私って…」
「心配しないでください。大丈夫ですから。今は何も考えず、体を治すことを第一に優先されてくださいね。」
私の言葉を遮るように看護師は言った。確かに、今はそれが一番なのだと私も納得した。ただ、私には確かめたいことが一つだけあった。
「あの、ラン…、あ、えっと、私と一緒にここへ運ばれてきた人って、いませんでしたか?」
「ああ、松下君ね。大丈夫。あなたより少し前に目が覚めて元気に回復してますよ。」
私は安堵した。それと同時に、ランの苗字を知り、全て現実だったことをどこか嬉しく思った。
「あの、ラン…、松下君って、どこにいるんですか?会いに行ってもいいですか?」
「ごめんなさい。あなたはこの部屋から出られないの。」
この部屋は、医師と看護師のみ出入りが可能で、患者は外には出られない。確かに、部屋には洗面台もトイレもシャワー室も完備されていて、この部屋から出る必要はないようになっている。
暫くの間は、トイレやシャワーを使う際には看護師から許可をもらい、使用中はこの部屋で看護師が待機するのだという。自由はない、むしろ監視されているのだ。
「それじゃあ、もし可能なら松下君に伝えてください。私が目が覚めたことを。」
看護師は優しく微笑んで快諾してくれた。私は、私がここに居ることをランにどうしても伝えたかった。
自分の意志とは裏腹に、私は生きることになった。でも、ランが生きていることで、もう少し生きてみてもいいと思い始めてきた。とても不思議だった。あんなに消えてしまいたかったのに。
しばらくして、またさっきの看護師が部屋に入ってきた。私の身の回りの世話が終わると私に優しく微笑んだ。
「松下君にね、あなたが目覚めたことを伝えたら、良かったーって喜んでた。ホッとしてたよ。あ、伝言預かってきた。俺も生きてるから、だって。」
私は思わず笑った。ランらしいひと言だったから。
「そうそう、松下君が目覚めた時も、一番初めにあなたの安否を気にしてた。あなたたち、ホント仲いいのね。」
私たち…お互いを何も知らないのに、何故こんなにも相手を気に掛けてしまうのだろう。あの樹海で偶然出逢っただけなのに。
その後も、私たちはお互いに看護師を通じてコミュニケーションをとった。回数は決して多くはないが、ランからの伝言が来るたびに、心がほっこりした。そして、それがいつしか楽しみになっている自分がいた。
それから数日、またいつものように部屋に来た看護師に、ランへの伝言を頼んだ。看護師は私をじっと見た。
「安藤さん、実は松下君、今日退院するの。松下君には言わないでってお願いされてたんだけど…。」
私は言葉を失った。ランが私にそんなことを何も言ってくれなかったことがショックだった。看護師が慌てて補足した。
「安藤さんを不安にさせたくないから、って言ってたの。あなたを思ってのことだったんだと思う。だから、悪く思わないで。あなただって、もうすぐ退院できるかもしれないんだから。」
ランが今日退院するということは、もう私たちは二度と会うことはできないということを意味していた。お互いを何も知らないのだから、当然連絡を取る術はない。そうか、私はもうランとは会えないのか。
それからまた数日。ランが退院したあの日以来、私はまた感情が消えた。何も考えられない。看護師を通じたランとのコミュニケーションの重さを実感した。気付かぬうちに、ランの存在が私の支えになっていたのだ。
部屋に来る看護師は皆、早く退院できるといいですねと励ましてくれた。でも、私は退院することに意味を見出せなくなっていた。
ある日、看護師が私の部屋に、お届け物があるとやって来た。小さな紙袋を手渡された。
「それ、お見舞いだって。松下君からだよ。」
私は耳を疑った。しかし瞬時に喜びに変わった。看護師は笑顔になった私を見ると、何も言わずすぐに退室した。
紙袋の中を見た。スマホと手紙が入っていた。
エリカへ
このスマホ、使ってください。
たった二行のメッセージだった。何故ランが私にこのスマホを?状況が掴めないまま私はスマホの電源を入れてみた。すると、LINEの通知があった。私は恐る恐るそれを見た。ランからだとすぐに分かった。
これでまた繋がったね
たったこの一行だけだった。でも、私は物凄く嬉しかった。私はすぐに返信した。ランもすぐ返してくれて、私たちはまたコミュニケーションを取ることができるようになった。
ランは、私があの日スマホを持たずに樹海に来ていたのを知っていた。それは当然だ。だって私はあの日を私の終わりにするつもりだったから。何もかも捨ててあの樹海へ踏み入れたのだから。
誰とも連絡を取れずにいる私の為に、ランはスマホを買ってきてくれたのだ。すぐに使えるように、LINEなどの設定までいろいろやった上で、私の手元に届いた。なんて準備万端なんだ。更に、ランの電話番号だけが登録されてあった。
それから毎日、朝のおはようと、夜のおやすみなさいのLINEは必ずランの方から届いた。日中にLINEが来ることはなかった。恐らく、私の負担にならないように気遣ってくれていたのだろう。そして、私がちゃんと生きていることを確認していたのだろう。
ようやく私が退院できる日が来た。看護師たちは、笑顔で退院を祝福してくれた。一人の看護師が私にそっと耳打ちした。
「これで松下君と会えるね。良かったね。」
看護師たちの目には、私たちはどう映っていたのだろう。彼氏と彼女に見えていたのだろうか?それともただの友達?正解は、そのどちらでもない。私たちの関係って、一体何なのだろう…。
病院を出て、真っ先にランに電話した。でも、繋がらなかった。私は、LINEにひと言メッセージを残した。
無事退院しました。
連絡ください。
電話どころか、LINEの返信も来なかった。既読にすらならなかった。もう私が退院したから、このやり取りに意味が無くなったとでも思っているのだろうか。それなら、あとはこっちから連絡するのはやめようと決めた。
でも、このスマホはランの名前で契約している物で、当然支払いもランになっている。このままこれを私がタダで使うわけにはいかない。スマホはきちんとお返ししよう、そう決めた。
このスマホ、お返しします。
連絡ください。
今までありがとう。
返信は期待せず、メッセージだけ残した。もしこのまま返信がなかったら、私がこれをショップに持って行って解約すればいい。ランが私を迷惑だと感じているのであれば、そうするしかないと思った。
久々のマンション。私が私の手で私を終わらせようと決心したあの日のままで、どこか無愛想で冷たく感じた。今日からまた私がこの部屋の明かりを灯す。また再び生きるんだと言わんばかりに。
夜になると、急に寂しさが込み上げてきた。私は一人なんだと、強い孤独感が私を襲った。自然と涙が頬を伝った。
耐えきれず、私はベランダに出て空を見上げた。大きくてキレイな満月がそこにはあった。美しい月の光を浴びて、少しだけ心が落ち着いた。ランと出逢ったあの日も、こんなキレイな月だった。私は懐かしく思った。
夜風に吹かれて、心を落ち着かせることができた。部屋に戻り、また明日の私を迎える準備をした。
就寝前の温かい飲み物を口にしたとき、スマホが鳴った。
ランからのLINEだった。
明日会える?
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