絶望

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絶望

「申し訳ありませんでした。」  まただ。こうやって、身に覚えのないことに謝罪し、頭を下げる。もう何度目になるだろう。会議室がざわつき始める。 「資料がないんじゃ何も話し合いができないだろ。困るんだよ!君は何を考えているんだ!我々を馬鹿にしているのか!」  テーブルを叩きながら大袈裟過ぎる程の強い口調、それに便乗する外野からの野次。私は頭を下げたまま、黙って罵声のシャワーを浴び続ける。資料を準備するはずの部長は、黙って腕を組み、不思議なくらい落ち着いている。この会議の直前に、私は部長に確認したのに。 「部長、今日の会議の資料はございますか?会議室にセッティングしますので…」 「資料?そんなもの必要ない。」 「え?でも…」 「必要ないと言ったら必要ないんだ!」 「ではどうやって会議を…進めるのですか?」 「お前が適当に進めておけばいいじゃないか。それで済む話だ。あとはお前に任せるからな。」 「えっ?私ですか?私は内容を全く把握しておりませんが…」 「何を言ってるんだ。そんなわけないだろう。とにかく、うまく進めてくれ。資料がなくても大丈夫な案件だ。こんなこと、馬鹿でもできるからな。」 「え?あ、…はい。承知…いたしました…。」  鋭い視線を私に送り、その場を立ち去る部長の冷たい背中を、思いっ切り蹴ることができたらどんなに楽だろう…。こんな理不尽なことがあるたびに心の中に浮かぶ。でも絶対にできるわけがない、我慢するしかない、グッと飲み込み、やるしかないと自分に言い聞かせる。  徐々に会議室に人が集まる。私よりもうんと年上の偉い人たちばかり。この後とんでもないことになるなんて、誰も予想してないだろう。何も知らずにみんなはここへ来ている。私は不安と焦りと緊張と、ほんの少しだけの希望で、心の中がグチャグチャだ。はぁ、どうしよう。どうなってしまうんだろう。  定刻になり、ついにその時を迎えてしまった。進行担当が口を開いた。 「それでは、本日の会議を始めます。本日の案件の担当者、お願いします。」  私には、地獄への誘いに聞こえた。小さく返事をして、少し震えながら私は演台へゆっくりと歩き出した。 「えー、…それでは、本日は私、安藤から説明させていただきます。」  一礼をすると、同じチームの同僚たちが一斉に目を合わせて驚いている。そうだよね、まさか私がここに立つとは思ってもみなかったでしょう。 「本日の案件ですが、…資料はございませんので、口頭での説明になります。今回のデータによると…」  説明を続けようとしたその時、テーブルを強く叩く音が鳴り響いた。 「資料がないだと?どういうことだ!口頭での説明だけじゃ何もわかる訳ないだろ!」 「…申し訳ありませんでした。」    こうして、私は頭を下げることとなった。その間しばらく罵声は鳴り止まない。横目で見ると、腕組みをして落ち着いている部長の姿がある。私のこんな姿を見て、何とも思わないのだろうか。 「皆様には多大なご迷惑をお掛けしまして…」 「どう責任取ってくれるんだ!」 「本当に申し訳ありませんでした。」  すると、目を疑うような光景が広がった。部長が手を挙げた。 「あ、はい。私からよろしいでしょうか。この度はウチの安藤の不手際により、皆様に多大なご迷惑をお掛けしましたことを心よりお詫び申し上げます。私から安藤には早めに資料を作るようにと促しておりましたが、彼女の怠慢によりこのような結果となってしまいました。」  は?何これ?ウソでしょ… 「では、安藤に代わって私から改めて皆様に資料を提供させていただきます。資料がないことには始まりませんからね。私も皆様と同感でございます。三日間だけお時間をくださいませんでしょうか?」  野次から拍手喝采へと変わった。さすが部長とみんなが賞賛した。私は夢でも見ているのだろうか。  会議は延期となり、この日は幕を閉じた。同じチームの同僚がヒソヒソと呟いているのが聞こえた。お気の毒に、と。仲良しのユイが私の所へ駆け寄ってきて耳打ちした。 「エリカ、…何があったの?大丈夫?エリカが進めることになったのはいつ決まったの?私知らなかったよ。」 「あ、うん、ちょっとね…。実は…」  ユイに事情を説明しようとしたその時、私の背後に何者かが近づいてくる。あの人だ。 「杉野君、安藤君と今日のこのミスについて話をしたいから、席を外してくれないか。」  部長だ。嫌な予感しかしない。 「あ、…はい。…承知いたしました。」  ユイは心配そうな眼差しで私を見て、会議室を後にした。この密室には私と部長と二人っきりになった。 「エリカちゃーん、ゴメンねぇ。無茶振りさせちゃったね。みんなあんなにいじめなくてもいいのにねぇ。いじめないでーって言えば良かったのにぃ。」  気持ち悪いとしか言いようのない鼻にかかった猫なで声と共に、部長は私の手を握った。これがいつものお決まりのパターン。 「資料はさ、俺が何とかちゃちゃっと作っておくからさ。ね、ね。」  私は何も言えず、苦笑いしかできなかった。だって、またお決まりのあのコースになるのがもう目に見えているから。 「それでさ、今日は金曜だから、明日と明後日は仕事が休みなわけだし、どう?今夜一杯飲みに行かない?全部ご馳走するからさ。」  絶対に行きたくない。でもこれを断ると、今後更に大変なことになる。何人もの子が痛い目に遭ってきたのを、私はよく知っている。絶対に断れない。 「は、はい。お、お言葉に甘えて…」 「良かったぁ!じゃ、勤務が終わったら1階ロビーで待っててね。」  鼻歌を歌いながらご機嫌な様子で会議室を出る部長。私の地獄行きが決定した。  勤務が終わり、約束通りロビーで待つ。帰りたい。こんな悲しい金曜の夜があるだろうか。もう何度目になるのか。数え切れない程だということはわかる。毎週金曜はこれだ。部長の県外出張でもない限り、私は金曜の夜は部長と食事だ。  同じチームの同僚たちがまたヒソヒソと呟いているのが聞こえた。助けてあげたいけどどうにもできない、と。お疲れ様でしたと挨拶を交わし、彼らはそそくさと帰っていった。 「お待たせ。じゃ、行こうか。」  後ろから両肩を叩かれ、耳元で囁かれた。全身鳥肌が立った。さあ、地獄へ行くのだ。  すでに手配されていたタクシーに私たちは乗り込んだ。車内ではどうでもいいような部長の自慢話でいっぱいだった。私はひたすら相槌を打つ。苦痛でしかない。  タクシーはいかにも高級そうな店の前に停まった。部長が選ぶ店はいつもお高い店ばかり。だから料理にハズレはない。それだけが唯一の救い。  店内に入ると、店長だろうか、偉そうな人が私たちを出迎え、奥の個室に案内する。何故かいつも個室ばかり。それが恐怖心を煽る。    料理が次々と運ばれる。もちろんお酒も出される。食事中は仕事の話はほとんどない。ひたすら部長の自慢話と、私のプライベートを聞き出そうとする誘導が主な話題。深く追求されないような返しの技が自然と身に付いた。  地獄の時間がとても長く感じる。当然だ、全然楽しくないから。せめて部長が若くてスレンダーなイケメンだったら、楽しいと感じるのかもしれないが…。典型的な小太りおじさんと時間を共にしている私、何やってるんだろう。  料理を全て美味しくいただいた後は、お酒と共に長い雑談の時間となる。もはや私はほとんど聞いていない。そうですね、さすがですね、この二語しか私は発しない時間だ。しかし、私にはこれを回避する手段を持っている。雑談が始まってからおよそ一時間経過した頃だ。 「あの、部長、私はそろそろここで失礼します。彼氏がもう店の前で待っているみたいで。申し訳ありません。今日はありがとうございました。ご馳走様でした。来週もまた頑張りますのでよろしくお願いします。」  部長の酔いが回ってきた頃にこれを言って切り抜けることができる。実際に彼氏が店先に来てくれるから、部長も無理には引き止めず、ご機嫌のまま私に手を振って帰してくれる。恐らく記憶がない状態なのだろう。よし、今日もこれで帰れる。 「え?何言ってるの?エリカちゃん、彼氏と別れたんでしょ?今、彼氏いないよねぇ?迎えに来てるなんてウソでしょ。」  私は凍りついた。なんで知ってるの? 「私は何でも知ってるんだよ。社員のことはみんな把握しているんだ。」 「どういうことですか?あの…どうやって…?」 「男性社員は、喫煙室や自販機の前でよく雑談するだろう。そうすると何でも聞こえてくるのさ。女性の場合は給湯室。こないだエリカちゃん、杉野君と話してただろう。ああ、ちょうど五日前か、別れたのは。今ちょうど寂しい時期だろ?そんなことくらい知ってるさ。」  もう逃げられない。私は瞬時に悟った。 「杉野君は地方出身で、地元に彼氏がいて遠距離恋愛中なんだろう?だから彼女は金曜の夜には地元に帰って、日曜の夜にまたこっちに戻ってくる生活をしている。大変だけど彼女はそれがまた楽しいって言ってたね。」  給湯室で話したそのまんまの内容に驚く。全て聞いていたのか。部長は、私が今は彼氏がいなくて、更に金曜の夜はユイもいないことを知ってて、私を今日誘ったのだと気付いた。そうすれば、誰にも邪魔されない、私を助けてくれる人がいないからだ。計画的犯行だったのか。 「エリカちゃん、どうだい?この後、もう一軒行かないか?だって、このまま家に帰っても一人だし、帰らなきゃならない理由はないだろう?」  私は、この言葉がどういう意味かすぐに理解できた。絶望感でいっぱいになった。何も言い返せなかった。 「じゃあ行こう。ホテルを予約してある。ワインも準備しているから、そこで飲み直そう。移動しよう、タクシーも来ているから。」  準備万端な様子に更に落胆する。初めから今日はこういうつもりだったのだ。私たちは店を出てタクシーに乗り込んだ。さっきの店長さんらしき人が頭を下げて私たちを見送る。まるで、行ってらっしゃい、と私に言っているかのように見えた。  タクシーがホテルに到着した。超高級ホテル。なかなか足を踏み入れることのできない貴重な経験だ。普通なら心躍るはずなのに、今の私は、ここから逃げ出したい気持ちでいっぱいだ。できることなら行きたくない。  絶望行きのエレベーターに乗り込んだ。気がおかしくなりそうだ。とても長い時間エレベーターに乗っていたような気がした。  部屋に入り、ソファーに掛けるとすぐにワインが届いた。私は部長と乾杯し、一口飲んだが、なかなか喉を通らなかったのを覚えている。冷や汗が出てきた。怖い。でももう逃げられない。 「エリカちゃん、ここに来たということは、どういうことかわかっているよね?」  部長は私の隣に座り、手を握った。部長の荒い吐息が私の耳元にかかり、私のシャツのボタンへ手が降りた。  何も抵抗できないまま、私は部長と一夜を共にすることとなった。  
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