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中は暗い。けれど襖を開き切ってしまえば、居間の明かりで中を見ることができた。
私は息を呑んでいた。あまりの意外さに声を上げることもなかった。
襖の奥には居間と同じほどの広さの部屋があった。井草の匂いが立つ中、最奥にひとつだけ、それはあった。
少女。
金の髪は緩やかに降り、青の目はガラスの輝きを秘めている。青空よりも爽やかな青のドレスは白いフリルを多く含み、少女を少女たらしめていた。頬は丸く、唇は小さい。異国の幼い少女が、まばたきのない青の目を空虚に畳へと向けながら椅子に座っている。
「驚いたかい」
いつの間にか背後にいた彼が言う。大きく全身が跳ねた。けれど彼は私の所業に何を言うでもなく、やはりその穏やかな目元で私を、そして部屋の中を見遣る。
「彼女と共にいるから、どうにかやってこれたのだよ」
彼に誘われるがまま襖の奥の部屋へと踏み入り、私は未だ呆然としながら部屋の中央に突っ立った。彼はその静かな動作のまま少女の前へと膝をつき、あたかも少女へとするようにその小さく硬い手を取り、撫で、そしてそっと離し、次に少女の髪を撫でた。
「幼い頃から何かと苦しくてね」
彼は言った。
「君には言えなかったけれど、僕はこんなだからいろいろときつかったのだよ。お金の話じゃない、生活の、生きるという活動の話だ。君のように自分の思ったことを言ったり人の意見を無視したりできれば良かったのだけれど、僕にはそれができなかった。私は世間に苛立ち僕に苛立った。いつしか見知らぬ誰かを殺めて鬱憤を晴らしたいと思うようになった」
それは彼の、私が知らなかった彼の汚い本心であった。
「そうしたら彼女を見つけたのだよ。随分と高かった。けれどそれも良いと思った。高級品を壊す快感が欲しかった、人の心のような壊してはならないものを壊す快感が欲しかった。人形相手なら私は私でいられる気がしたのだ。私として、思うがままにその手足を捻り、捥ぎ、踏み潰すことができるかと思ったのだ」
「だが、君はそうしていない」
「結局できやしなかった。私は臆病なままだった。彼女を買って、この部屋で改めて向き直って――あれは君がまだ出版社と喫茶店で話し合いを繰り返していた時期だったか――何もかもを忘れてしまった。手足を掴み引きちぎる衝動はどこかに消えてしまっていた」
彼は優しい手つきのまま人形の頬に触れ、瞼の端に触れた。見るからに性欲のない、支配欲もない、人形の輪郭を己の手に合うよう歪めるではなく人形の輪郭に己の手を添わせる、彼らしい手つきだった。
「彼女はまばたきをしない。僕達はまばたきをせずにはいられない。その差に気付いて、僕はハッとした。彼女は生きていないのだ。それが僕を慰めた。生きていないのなら無理に微笑みかける必要もない、機嫌を窺う必要もない、暴言を我慢する必要もない、何に怯えることもそのようなことを気にする自らに苛立つこともない。……僕は、彼女を壊すまでもなく彼女に救われた。そうしてようやく平穏でいられている。僕は君よりもずっと弱くて頼りない男なのだ」
私は彼の背を見つめていた。目を離すこともできなかった。常日頃目にしているその穏やかで静かな背を、普段なら見逃しそうなその哀愁を、見つめていた。
「一つ頼みがあるのだが」
気付いたら私はそう言い出していた。その声は私が思っていたよりも大きく発せられて、私は私の声に驚いた。振り返ってきた彼へと一度咳払いをし、私は改めて胸を張り背筋を伸ばした。
「彼女を題材にして良いだろうか」
「……構いやしないけれど」
「それからもう一つ、頼みたい」
「頼み? 君が? 僕に?」
「ああそうだ、俺が君に頼みたいのだ。俺も心底驚いているのだが、俺は君に頼み事をしたいと思っている。――言葉を教えて欲しいのだ。君の感性を俺に貸して欲しい。俺は君の言葉で彼女の話を書きたい」
その日から彼は時間さえあれば文机の横に来て、私の原稿を見るようになった。私も彼と共に人形との無言の時間を過ごすようになった。彼は人形に対する柔らかな感情を口に出し、私は追随を許さない意固地な展開を書き記した。とはいえ相変わらず彼は疲れた顔で仕事から帰ってくるし、私はというと編集者との喧嘩が絶えない。
それでも彼は誰にも怒鳴らず、私は着実に原稿用紙の枚数を増やしている。
作品が完成する日は近い。
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