またたきを記す

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 私の友人は全く奇妙な趣味をしている。なりは普通だ、スーツを着込んで背筋を伸ばしチンチン電車にギュウギュウと乗り込んで会社へと出勤し、アレヤコレヤと仕事をしては深夜に帰ってくる。仕事の詳細は知らないが、曰く電話に出て話をし、上司の話にヘコヘコと笑い、事務員から出された茶を嗜みつつ書類に目を通すらしい。彼の説明はあまりにも雑なので何をしているか私にはサッパリわからない。だが彼が普通の会社員であることは明白だ。  さて、彼が奇妙なのは帰宅してからのことである。彼と同室を借りて部屋で文筆業をしている私としては、彼が夜遅くに帰ってくるのを気にしないわけにもゆかない。というのも、私は結構な朝好きの人間で、夜という時間帯はただの睡眠時間であり、一人心地良く眠っているところに立て付けの悪い扉をガタガタバタンと音を立てて動かして帰宅されるので大層不快なのであった。が、その点は慣れた。五月蝿(うるさ)いからと部屋を変える気もない。無論、彼との生活をやめる気も金もない。  彼はバタンバタンと帰ってきた後、私がいる部屋にソオッと入ってきて、私が起きているのを見て「すまんなあ」と頭を掻く。数年来その言葉を言い、私も数年間聞き続けてきた言葉なので、互いにもはや気にするつもりもない。ただ、彼が「すまんなあ」と頭を掻くのを「いいやいいや」と手を振ってやるやり取りを、私達はお(はよ)うの挨拶よりも多く、そして気持ちを込めて、しかしさほど頭を使わずに言い合う。  着物に着替えた彼は次に私がいる部屋の隣へと向かう。なお、私達が住んでいるのは二部屋連なりの和室である。私は居間の片隅に文机を置き、彼が会社勤めをしている間にその部屋で原稿用紙に向かう。隣の部屋は専ら彼の趣味のための部屋なのである。私は気を利かせて勝手に立ち入ることなく数年を過ごしているが、彼もまた私に何を言うことなく私をその部屋へ招かぬまま数年を過ごしていた。私はその部屋の詳細を知らない。ただ、仕事から帰ってきて着物に着替えた後部屋に入り、そして一時間程後に出てきた彼の顔は妙にこざっぱりとしていて微笑みすら浮かべているので、「何か良いことがあったのだな」と私は思っている。 ***  彼との付き合いは長い。学生時代に授業が嫌になって抜け出したのを彼も真似して、後で教師に揃って怒られ廊下に立たされたのが始まりである。不思議なことにそれ以前に彼と話したことはない。教室でお早うの挨拶をすることもなかった。 「お前さん、何で授業を抜け出した」  廊下に立たされながら私は彼に訊ねた。 「君が抜け出したから」  突然の私の問いかけに、彼は驚く様子も見せず即座に答えた。 「俺が抜け出したら君も抜け出すのか」 「誰もがやりたがることを実際やってのけたのが君だったから、僕も真似をしてみたのさ」  その回答に私は少し満足した。 「俺がやってなかったら君も抜け出さなかったのか」 「いいや、君でなくとも僕は真似をして抜け出していただろうさ」  私の満足はすぐに萎んだ。私は自身を恥じて、同時に彼に苛立ちを覚えて、彼に何を話しかけることもしなかった。けれど彼はその脱走事件の後、私へと頻繁に話しかけてくるようになり、私も機嫌を取り戻して彼の好意に応えることにした。そうして私達は友人になった。  付き合ってみてわかったのだが、彼はすこぶる真面目な人間であった。待ち合わせに遅刻することはなく、忘れ物をすることもない。人を貶すこともない。話に割って入ってくることもなく、けれど押し黙って話を一方的に聞くわけでもない。何を食ったらこのような人間が出来上がるのかと不思議に思いはするものの、彼が食するものは飯と味噌汁と焼き魚と漬物であり、私と大して変わりないのであった。 「人間、誰しもその場から抜け出したくなる時があるものなのだよ」  と大人になった彼は言う。 「そのきっかけが君だった。僕はあの時教室を抜け出したのが君でなくとも真似をしただろうが、あの時僕に真似をさせたのは確かに君だったのだよ」  彼の言い回しは文筆業をしている私よりも美しかった。私は貰い物のスルメを噛みながら「そうか」と返して、まるで話を聞いていないふりをした。  スルメは噛みきれなかった。 ***  私はというと仕事の進みは悪かった。原稿を書きはするものの、出版社から駄目出しをされてしまう、そんな日々が続いた。 「君は何に憧れているのかね」  と私を喫茶店に呼び出した編集者は煙草をふかしながら言う。 「君の文章はいやに綺麗なふりをしているが、その実そこにあるのは人間くさい感情だ。まるで偉ぶっている大人が清楚な少女を下手に演じているかのようで気持ちが悪い。少女になりきるのなら文面に社会への妬みを書くんじゃない、大人として書くのなら文面を小綺麗にするんじゃない」 「俺は俺の書きたいように書いているだけです」 「それがいけないのだよ。君の文章は気持ちが悪いのだ。汚い本心を隠して『私は綺麗な本心の持ち主です』と嘘をついている。確かに文筆業というのは読者に嘘をつくようなものだが、その嘘は相手を騙せるほどのものでなくてはならないのだ。相手を不快にさせる嘘であってはならないのだよ。格好つけるかありのままを書くか、どちらかにしたまえ」  私には編集者の言うことがわからなかった。私は私の思うままに書いていたはずだ。私は意固地になって編集者の言うことを無視した。やがて編集者から見放されて、私は原稿を片手に出版社を渡り歩く日々を送ることになった。収入は安定せず、何度同居人兼友人である彼に助けられたかもわからない。  それでも、彼は私を見放さなかった。 「そのくらいで見放すほどじゃあないさ」  久しぶりに共にした夕飯で、彼は箸先で焼き魚の身を摘みつつ笑った。 「むしろ僕が君を見ていたいのさ」 「そんなに俺は面白いか」 「そうではないよ。君は常に真っ直ぐで、頑固で、自分を曲げないだろう。だからすぐ誰かと喧嘩をする」 「馬鹿にしているのか」 「まさか。良いなと思っているさ」  彼の目元は柔らかであった。 「僕にはできないことを、君はしてのけるのだから」  彼の言葉は私が書く言葉よりも婉曲的で、かつわかりやすく聞き心地が良かった。私は大盛りの白飯を大盛りに箸で引っ掴み、箸を食らうつもりで大口を開けて無茶苦茶にかぶりついた。残念ながら箸は噛みきれなかった。  食事を終えて、私は仕事へと戻った。彼は皿を洗うために台所へと籠っていた。カチャカチャという皿と皿がぶつかる音とザアザアという流水が水場にぶつかって弾ける音を聞きながら、私は文机に胡座をかいて向かった。  ふと、私はそちらを見た。  襖がある。白よりも黄ばんだ、古めかしい襖がある。それは彼のみが触れる襖であった。私が開けることのない襖であった。仕事に疲れた彼が入り、何かに癒された彼が出てくる襖であった。  この中に彼の秘密があるのだろうか。彼の穏やかさと人の良さの秘密があるのだろうか。それを明かしたら、彼は怒るだろうか。泣くだろうか。  彼の怒声を想像してみたが、できなかった。  私はそっと立ち上がり、襖の前へと移動した。そしてそっと手を伸ばし、一度呼吸をし、そっと開けて中を覗き見た。
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