第六章

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「圭くん、結局、一度も私のことを西澤って呼んでくれなかったね」 そういえば、最初のデートのときに西澤って呼んでって言われたんだっけ…。 「だって、西山さんは西澤とは違うんだから、呼べないよ。このクッキーを作ってくれたのだって西山さんなんだから、西山さんにおいしいって言いたいよ」 彼女は手に取った2つ目のクッキーをじっと見つめた。 「そっか…。そうだよね。きっと、真帆がクッキーを作ったら、こんなに不恰好じゃなくて、もっときれいに形が整ってて、中に入れたチョコレートももっと細かく砕いてあっただろうしね。やっぱり、私は真帆にはなれなかったな」 そう言ってクッキーを口に運んだ彼女の横顔は、少し寂しそうで、でも、あきらめがついたようにも感じられた。 「それじゃ、私行くね」 彼女は立ち上がった。 「え?次は?」 僕は彼女の背中に問いかけた。 「日記はもうないの。真帆はここまでしか書かなかった…書けなかったから。だから、今日で終わり。今まで、本当にありがとう」 彼女はそう言って歩き出した。 僕は、ゆっくりとした歩調で少しずつ離れていく彼女の背中を見つめていた。 でも、彼女が公園を出て行こうとしたとき、僕は思わず走り出した。 「待って」 僕は彼女に向かって叫んだ。 彼女は振り返って、僕を見た。 「そんな顔しなくても大丈夫よ。真帆の後を追ったりしないから。ちゃんと、今までどおりにやっていくから。ちゃんと生きていけるから。じゃあね、さよなら」 そして、彼女はまた歩き出した。 けれど、その強気な言葉とは裏腹に、彼女の背中ははかなげで、寂しげで、僕はそのまま見送ることなんてできなかった。 「日記はないかもしれないけど、西澤の心残りはまだあるよ。やりたかったことは、まだまだあるはずだよ。来月にはホワイトデーがあるし、そのあとには春が来て、この公園にも桜がたくさん咲くから、花見をしようよ。そのうちに夏が来て、駅の向こうの神社でお祭りがあるし、ちょっと遠出して海に行ってもいいし、花火大会だってあるよ。日記に書いてなくたって、やりたいことはたくさんあるよ。だから、だから…さよならなんて言うなよ」 僕の言葉に彼女は立ち止まった。そして、ゆっくりと振り返った。 「しょうがないわね。そんなにいろいろあったら、まだやめられないじゃない」 彼女は泣きそうな顔をしていた。 「うん、だから、またね」 僕は彼女に手を振った。 「うん。またね」 彼女もそう言って手を振った。 そして、彼女は短い髪を弾ませて、坂道を駆け下りていった。
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