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クリスは彼の天敵であり、恋敵であった。
「私を裸にしたのは、無力感を与えかったから。衣服を剥がれて泣く『女』の無様な姿を見て、満足したかっただけでしょ」
彼女は眉をひそめ、鼻に細い縦皺を浮かべた。
「思いどおりになんて、なってやるもんですか」
初めて会ったときから、彼女のことは嫌いだった。カンサクにすれば、コウタ・ノアキを奪った魔性の女なのだ。
コウタと彼は中学生の頃、鳩レースの地区大会で知り合った。それ以来ずっと、唯一無二の親友でいた。
伝書鳩アルラア号をふたりの共同所有にして、書簡の往復を始めたのは、大学に入る少し前のことだ。鳩の足に付けた通信環に入るほど小さな紙切れのやり取りでも、互いの心が通い合っていると思えて、嬉しかった。
カンサクにとってコウタは初恋の相手であり、生涯愛すると心に決めた男性だった。恋人が出来たと聞いて生じた心の傷は、今もぱくりと開いたままだ。
クリスが、背後の窓を叩いた。
「あなたは水球を見ないのね。けっして見飽きることなんてないほど美しいのに」
彼女の背にする窓ガラスの向こうには、直径1万メートルの巨大な海水の塊が聳えていた。周囲の海水や大気の影響を受けないように、重力場と電磁場によって球状の密閉空間を作り上げた、人類史上最大の建造物だ。
雲の上に出ている上半分が太陽光を取り込んで、全体が美しい青のグラデーションに彩られていた。海水で構成された球体は海洋の動植物と、選ばれた人々の分身である「クローン海獣」が生活するビオトープである。
「待避所の管理者であるあなたが、どうして目を背けるのかしら」
「人類のせいで、地球は汚れてしまいました。今の時点でリセットしなければ、惑星そのものが死んでしまうのです。目の前の『水球』や『播種船・アルカ』、管理棟を含むこの『待避所』は、地球に対するせめてもの罪滅ぼしですよ。どれほど壮大で美麗であろうとも、見れば私の胸は罪の意識に苛まれる。理解出来ませんか」
「理も非もなく人類を滅ぼす計画を押しつけておいて、他人に理解を求めないで。世界中で止まない雨が降り始めた後になって、『今さら』でしょ。あなたという人は、矛盾だらけなのね」
天を覆う雲はより黒々とした色へと変わり、雨風が強まってきた。悔しいけれど、彼女は正鵠を射ている。鉛色の空とは対照的に、晴れた日と同じ海の色をした球体を見上げて、カンサクは深々と息を吐いた。
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