20人が本棚に入れています
本棚に追加
コウタは連絡口のドアにもたれかかって、体を休めていた。
「コウタ! どれほど心配したか」
「来るつもりはなかった」
彼は濡れそぼち、痩せこけた体を震わせながらも、熱のこもった声で呟いた。目を合わせるのが怖くなって、カンサクは思わず顔を伏せた。
「でも君は来た。行こう、クリスが君を待っている」
顔を上げると、こちらを見据える焦げ茶色の瞳と出会った。疲労と低体温のせいでまぶたが半ば閉じているものの、目は光を失っていない。
「待避所へ避難しない限り、誰だって洪水か土砂崩れに巻き込まれる。そうでなくとも食糧不足、電気・ガス・水道の供給停止、感染症などで、ひと月と保たないさ。間もなく死ぬ僕が、安全な場所にいる彼女を縛ることは出来ない」
カンサクは首を左右に振った。自分の行いを責められている気がしたからだ。
「我々が生まれる以前から計画されていたことだよ。地球環境を守るため、人類の全てと陸地に生息する生物のほとんどが命を落とす。人類が自ら立案し、実施することにした計画だ。それは君の人生とは関係がない。切り離して考えるべきだ」
「切り離すことなんて出来やしない。僕は現実を見てしまったんだ」
低音の声はまるで熾火のようで、触れれば火傷しそうだったが、あえて聞き返さずにはいられなかった。
「君は、何を見たんだい」
「死だ。人や動物、生き物たちの命が失われていくのを見た」
「でも地球を浄化しなければ、結果として、もっと多くの生命が失われるから」
コウタは、「歩きながら話そう」と、管理塔へ向かい歩み始めた。濡れそぼったデニムの足が重たげな音をたてた。
「3日前のことだ。赤ん坊が流されていくのを見た。濁流に浮かぶ籠の中で、ひたすらに手を振っていた。ひとりで生きる力のない、守られるべき存在。この目で見たんだ。僕に向かって振っていた、あの小さな手! 届きさえすれば……。僕は救いたかった。だから、ここに来た」
論理の飛躍は疲労のせいだろう。肉体的な苦痛に加え、間近で流されていく乳児を見たことで、コウタの精神に負荷がかかり過ぎたのだ。
「その子はかわいそうだけど、人類は滅びの道を選択したのだから……」
「君は目の前で人が死にゆく様を見ていない。僕は見た。待避所へは来ないつもりでいたけれど、それで考えが変わったんだ」
カンサクは疑念を、おそるおそる声に出した。
「もしクリスが同意したら、君は彼女を連れて去る、ということ?」
コウタは間髪を容れず、「そのとおりだ」と答えた。
「彼女がここにいたい、水球に入りたいと言ったら?」
「クリスの自由だ。彼女がどう生きるか、たとえば君と水球に入りたくなったのなら、それで構わないさ」
物憂げに動かされる唇から、驚くべき言葉が飛び出した。カンサクは思わず眉間に皺を寄せた。
「そう嫌な顔をするなよ。君は別に、精神的に女性というわけではないだろう? 美しくて魅力的な女性が側にいたら、好きになったっていいんだ」
「彼女のことは好きになれない」
こんな時、うまく気持ちを表現できない自分が、クリスよりも嫌いだった。
「コウタも、一緒に行くよね」
「クリスの選択によって、僕の決意が変わることはない。水球には入らない」
「待って、ちょっと待って。彼女が君に、死んで欲しくない、と願っても?」
「彼女は僕を縛らない、僕も彼女を縛らない」
カンサクはよろけて、壁に手をついた。
「クリスは君のことを愛しているんだよ、私もだけど。君のことを愛する人たちの願いを無下にして。……分からない、君には海獣になって水球で暮らす資格があるのに。いいや、クリスと私に愛されている君だけは、何があっても生きていて欲しい」
コウタは返事をしなかった。ふたりは無言で、管理塔へ昇るエレベーターに乗り込んだ。
最初のコメントを投稿しよう!