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〜中央区〜
国政関連のビルが点在する一画に、ICSA Ltd.(国際クラウドセキュリティーアライアンス株式会社)の巨大な高層ビルがあった。
ICSAは、情報世界に於いて、最重要視されるセキュリティーシステムを担い、各国の警察や行政機関、更にはCIA等の諜報機関までもが、信頼を置く、大企業である。
その最上階フロアは、半分が社長室、残りの半分が社長の居住スペースとなっていた。
荒垣芳正。
現ICSAの社長である。
恵まれた家系に生まれたとは言え、来るべき情報社会を感じ取り、生涯を研究開発に注いだ、現代の偉人である。
妻との間に子供はなく、その妻も癌で他界。
彼自身、脳内に悪性腫瘍が見つかり、余命はもうあと僅かであった。
「芳正様、日下部様がお見えになりました」
秘書の川中𣴎美が、柔らかな声で告げた。
デスクワークの手を止め、𣴎美を見て微笑む。
「すまないが、アールグレイを2つ頼む」
「畏まりました」
丁寧に一礼し、客人を招き入れ、出て行く。
コーヒーではなく、アールグレイティー。
それは、芳正が何か特別な時に飲むことを、彼女は理解していた。
「荒垣様、あまりご無理なさらないでくださいね。大切なチェスの相手でごさいますから」
荒垣の顧問弁護士、日下部章。
30年来の付き合いの彼は、芳正にとっては、最も信頼できる家族の様な存在であった。
「まだ勝ち足りぬか。全く、私に仕えながら、一度も手を抜かぬとは、酷くないか?」
「私が負けた時は、荒垣様の命運が尽きる時だと、ご自分で仰ったのですよ。負けられない、私の身にもなって下さい」
「ああ、あれか!あれは、冗談だ。まさか、本当に勝てないとは、思っても無かったからな。アッハッハ」
その笑顔に、いつもと違うものを感じた。
「世迷いごとかと、半信半疑でしたが、どうやら本当の様でございますね」
笑みを浮かべる日下部の目は、真剣であった。
それを悟る芳正。
「そうか。では…これを、お前に託す。もしもの時は、どんなことをしてでも、これを。頼んだぞ」
深紅の紐で結えられた、真っ白な便箋。
自筆の名前と日付を表にし、日下部に渡す。
裏に書かれた文字は、見るまでもない。
鞄にはしまわず、スーツの内ポケットに差し入れ、前の釦を留めた。
「さて、では始めるとするか!」
その言葉を合図に、ドアを開けて𣴎美が入って来た。
洒落たアンティークカートに、西洋風のティーカップが3つ。
下の台には、チェス盤♟️一式。
デスクを離れ、専用のテーブルに着いた。
アールグレイティーは、世界で1番有名なフレーバーティー(茶葉に人口的に香りを加えるもの)であり、芳正の好みは、キームンベースのアールグレイティーである。
ベルガモットの柑橘系フレーバーが心地よい。
秘書の𣴎美は、対戦の言わば審判である。
彼女のカップには、最後にいつも芳正が注ぐ。
「手加減するなよ。まだ生きていたいからな」
「もちろん!美しい女性の前ですからね」
クスっと笑う𣴎美。
彼女は、このひと時が好きであった。
最先端のIT企業の最上階で、3Dやホログラムではなく、持ち運びできる安物で遊ぶ2人の老人。
何とも言えない。
穏やかなひと時である。
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