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月も、なんもない
「農道、ですね。」
「ん、そうだな。」
「大根めちゃくちゃ植わってますよ。」
「あれ、大根なんだ。」
「知らないんですか?」
「俺、事務畑だから。」
大根と畑を上手くかけたな。
僕はツッコミを入れるタイミングを見計らっていたがそうではないらしい。
僕よりだいぶ背の高い背中が暗い農道を黙々と歩いて行く。
別に、前を歩く男と隣同士で歩く義理なんてないんだから、追いつけなくてもいいんだけれど。早足に付いて行くのが大変だなと、思っていた。
「駅前に店舗があるんですね。」
「そう、あれ、3号店。」
「古いんですか?」
「うちが創業50年になるから、そんくらいなんじゃない。」
へぇ、と返しながら、僕はあの人が幼い頃に買い物に行ったかなと想像する。子どもの頃に初めて触れる「おしごと」ってスーパーの店員さんだったりするよな。
レジが珍しくて、覗いて、お菓子にテープ貼ってもらって、ありがとうって言わると嬉しかったなと僕の気持ちは遠くに戻っていく。
「ここら辺だけ、なんもないよな。これで一応、駅まで10分なんだけど。」
前の男は腕時計を見る。
僕はどっかに行っていた気持ちを現在に戻す。
「あー…あの道曲がったら、急に商店街ですね。この辺りの農家さんが、住宅用に土地を売ってないんじゃないですか。熱心にやってるのかもしれないですよね。」
あの人の実家からしばらくは畑で、なんもない。駅の周りはコンビニもドラッグストアも、うちの店舗もあるのに。
あの広い畑と、あの人の実家になにか関わりがあるのかもしれないけど、僕は何も知らない。
なんせ、まだ親しくなって6ヶ月なんだ。僕が何を先に飲むのかだって、あの人は知らない。前を歩く男にはビール、もう一人の男にはハイボールを出すのに。
そう言えば、呑みに行ったこともない。いつも黙って舞台を観ていた時間の方が長いのかも。
10年ねぇ…チラと前の背中を見る。なんでも知ってるんでしょうね。この人は。それこそ、体の細部まで。僕は鎖骨だって見たことがない。あと、靴下を履かない踵とか、膝小僧とか。
舞台を観てる時の、首筋が好きだ。実は斜め後ろの席を取って、ずっと眺めていたいと思っている。
暗い中で、舞台上の照明が明るくなる時の。あの違う世界に行っている目も、唇も好きだ。隣の席もやはり譲れない。
「なんもないな。」
また、前を歩く男が言う。
「商店街、入ってますよ。夜で閉まってるけど、店はある。」
こちらに少し振り向いて、睨んだような目で見る。
今、どんな気持ちなんですか?と聞きそうになり、やめる。僕はいつもこれが聞きたくて聞けない。情報として、言葉で表した気持ちが欲しい。役者をしていた時の癖だ。
悲しんでいる人に、今、どんな気持ちなんですか?なんてデリカシーのない記者じゃないんだから聞けないだろう。
その気持ちがわかれば、役者として新しい表現ができるのに。察して、考えて、想像しても、本当に味わった体験しかリアルにできない気がしている。だから面白おかしくしかできなくて、それ以上が、ない。
「空、なんもないだろ。」
「曇ってますね。」
「あんなに暗かったら、綺麗な夜空が見えそうだったのに。」
意外だなと、また背中になった前の男を見る。
「これから、どうするんですか?」
「帰るよ。明日も仕事だし。」
「いや、あー、そうですね。帰りましょう。」
「一人でどうすんのか聞きたいの?」
「いえ、忘れてください。今のは。」
「待つって言ったでしょう。待つよ。」
あんたのとこに戻らなかったらどうすんのかって聞いてんだよ。
僕はこの文章を優しい言葉に変換しようとして次の言葉が出てこない。
「資格でも取るかな。難しいの。」
「資格?」
「夜、やることないし。」
「一人ですからね。」
僕なりの精一杯の嫌味を込めた。
「そうだ、連絡先、教えてくださいよ。番号だけでいいですから。」
僕はスマホを取り出す。
「なんで?俺はいらないんだけど。」
前の男はスマホを取り出そうともしない。
「資格、取れたら教えてくださいよ。受かったよって誰かに教えたくなりません?教えてくださいよ。」
いらないよ。あ、でもそうか。と男はスマホを取り出す。
僕が入れて、ワンギリしますからと。もうこんな方法は旧式だろうか。
「あいつ、全然電話出てくれなくて。なんかあったら間、繋いでください。仕事で連絡取りたいこともあるから。」
なんだよ。便利アイテムみたいな使い方するつもりかよ。
「資格の試験、いつなんですか?」
「8月。今からじゃ間に合わないよ。受けても再来年だな。」
どうぞごゆっくり、時間はたっぷりあります。そちらにあの人は戻しませんから。と不敵な笑みを浮かべた僕も気付いて呟く。
「なんもないですね。」
今、僕達はみんな一人だ。
あの人の家で眠る、もう一人の男が気掛かりだったけれど、それを聞く前に駅に着いた。
俺、駐車場に車置いてあるんで。と男はコインパーキングに去って行く。
僕は好きで、好きでたまらない人に「君より仕事が大事だ」と言われた人の気持ちを考えてみる。
思っていたより、清々しかった。
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