ココ

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ココ

 雪は、絶え間なく降り続いていた。  風のない夜だった。  天から地へとまっすぐに落ちてくる。  積もるともせず溶けもせず、半端に街を染めていた。  往来を歩く人々の足は速い。  外套をきつく巻き付け、脇目もふらず我が家を目指している。  彼らの頭上には、等間隔に街灯の明かりがある。  往来に沿って並ぶ姿は、実直な衛兵に似ていた。  その、ひとつだけ消えかけた下に、黒い傘が開いていた。  まだらに白い布の奥から覗く顔は、美しい女だ。  街灯がちらつく。  金の髪。碧い瞳。  女はくしゃみをして、鼻を(すす)る。  吐く息が夜に長くたなびいた。    彼女の名は、ココ。    娼婦だ。      *  初めて客を取ったとき、ココは十四歳だった。彼女は処女だった。客の呼び止め方はおろか、男の悦ばせ方も知らなかった。だが母は確信を持って言った。 「立っているだけでいいよ、男は勝手に寄ってくる、あとは(からだ)に任せるんだ。お前は特別なのさ」  そして真実、そうなった。ココは母の言葉の意味を知った。  ココはその躰を男たちの要望に合わせて自在に変貌させることができた。あるときは初心な少女のように、あるときは熟練の年増のように。指や唇は的確に男たちを刺激し、乳房は愛撫に応えてさまざまに形を変えた。膣はペニスを優しく迎え入れ、(ほとばし)る精液を暖かく受け止めた。そして絶頂に達するとき、肩甲骨を翼のように浮き出させながら背中を反らせた。  これらを無意識にできることが、彼女が特別たる所以(ゆえん)であった。  ココを抱いた男たちはみな、彼女を美しいと褒めた。ココは嬉しかった。難しく考えるのは苦手だったが、他人に悦びを与えることは尊いことだと理解していた。自分の躰がそういうふうに出来ているのは、きっと神さまからの贈り物であり、それを為すべきためなのだと信じた。  一方で、男たちが去ると、ココはいつも洗面所で嘔吐した。性交のあとは、密度の高い金属が胸に支えているような感覚に襲われた。いくら吐いてもそれは出てこず、胃液と唾液ばかりが口元を汚した。ココは泣いた。吐いては泣き、泣いては吐いた。  それでも、彼女は娼婦としてあり続けた。  尊い生き方には、苦しみを伴うと思っていたから。     *  ある朝、ココは買い物のために家を出た。  未明まで続いた雪はあちこちに痕跡を残し、交通の足を乱していた。ココもぬかるみにはまらないよう、下を見ながら慎重に歩を進めた。  その視界の端に、黒いものが映り込んだ。  振り向いたココは、ゴミ捨て場に一人の浮浪者が座り込んでいるのを見た。この寒空の下、ボロ布を身に巻き付けただけで靴すら履いていない。珍しくない光景だ。飢えと寒さをしのぐ方法を見つけられなかった彼らは、翌朝には冷たい屍となって警察に回収される。誰も気にしない。ココも気にしたことはない。  しかし、ココの足は止まった。  足は自然と、浮浪者へ向かった。身を屈め、顔を覗き込む。垢の臭いが鼻腔を突いた。老人で、忘我の状態だった。髪も髭も伸び放題だったが、不思議と粗野な印象はなかった。もとはそれなりの身分を持った人物だったのだろうとココは推測した。零落して、浮浪者に身をやつしたか。  老人はココに気づき、顔を上げた。 「天使」老人は呟いた。 「私は天国に来たのか」  ココは首を振った。 「そうか……当然だ、行けるわけがないのだ。私は、何を期待したのだろう……」  老人は項垂れた。  かわいそう――そう思ったココの手は、老人の枯れた腕を掴んでいた。彼は驚いて、身をよじった。 「放しなさい、お嬢さん。手が汚れてしまう」  ココは構わないと言った。自分は天使ではないが、行き会ったのも何かの縁だ、この哀れな老人にあたたかい食べ物と着るものを分けてあげることはできるだろう――その心境に、自分自身が驚いていた。気まぐれで事を起こすことはたびたびあるが、これほどの大事は初めてだった。野良犬に餌をやるのとはわけが違う。それでもココは、掴んだ腕を離さなかった。老人は抵抗したが、力は弱かった。不衛生な生活が身体を病んでいるようだ。  ココは彼を無理やりに自宅へ連れ帰った。玄関で足を拭いてから部屋に上げると、そのまま浴室に入れ、石鹸や髭剃りの場所を教え、湯上りはフックに吊るしてあるバスローブを着るように言いつけて扉を閉めた。  やがて観念したようにシャワーの音が聞こえ出すと、ココは外套を脱いで台所へ向かった。あの汚れようだと、出てくるまでしばらくかかるだろう。その間にココはあるだけのパンを焼き、大鍋にシチューをこしらえた。上物のワインの栓も開けた。  食卓がすっかり整った頃合いで、バスローブをまとった老人が浴室から出てきた。髭はきれいに剃られ、伸びた髪はうなじのあたりで結わえられていた。品のいい顔立ちがあらわになり、貴族然とした雰囲気を強くした。彼は夢見るような心地で言った。 「まるで生き返ったようだ。肌が痛いくらいだ」  ココは食事を勧めた。老人は祈りの言葉を口にし、パンをかじり、シチューを食べた。ゆっくりと咀嚼しながら、両目から大粒の涙がこぼれ落ちた。ココは穏やかな笑みを浮かべながら、席に着いて食事を共にした。 「どうして、私を助けてくれたんだい?」  腹が満ちると、老人はココに訊ねた。ココは肩をすくめて、そうしたいと思ったからと答えた。それ以上に説明できなかったからだ。そして――これは言わなかったが――、そうすることができるだけの蓄えが自分にはあった。 「感謝してもしきれない。あのままだったら、夜を待たずに死んでいただろう」  礼を述べて、老人は名乗った。ココは覚えがあった。数年前に倒産した化学工場の経営者だ。公害による人的被害、劣悪な労働環境が問題となったことを記憶している。  老人は認めて、 「私は拝金主義者だった。この世に金より尊いものはなく、あらゆるものは金で買えると信じていた。生きることとは儲けることで、そのためなら何でもした。途中で挫折すれば目も覚めたかもしれないが、幸か不幸か私には商才があった。私は挫折を知ることなく、ひたすらに金を稼ぎ続けた。廃液で河川を汚し、家畜のように人を使い……その結果がこのざまだ。受けるべくして受けた罰だ。何度も死のうとした。そのたびに、死にたくないという思いが私を留まらせた。赤の他人には無慈悲になれるのに、自分のこととなると可愛くてしょうがないんだ。死にたくない、死にたくない、そう思いながら毎日を繰り返して、とうとう体が動かなくなったとき、あなたに出会った」  ココは老人の手を握った。死にたくないと思いながら過ごした日は生きているとは言えない、 あなたはもう何度も死んできた、私がきっかけならば、もう一度生きてみてと伝えた。  老人は子供のようにしゃくりあげながら、大きく頷いた。  ココは身を乗り出して、老人にキスをした。はっと強張った唇を舌でこじ開け、歯列をなぞった。老人の手はわなわなと震えたが、彼女の行いを妨げようとはしなかった。ココは老人の股間に触れた。ペニスは硬く勃ち上がっていた。 「情けない」老人は弱々しく呟いた。 「こんな歳になって、あなたのような若い娘に欲情してしまうとは」  ココは老人の手を自らの乳房に宛がった。いいの、私はそのためにあるのだから――そのままベッドへいざなうと、服を脱ぎ、躰を開いた。老人は覚悟を決めたようにバスローブを脱ぎ、彼女を抱いた。  交わりは静謐な吐息で飾られた。まるで儀式のようだった。乾いた指先の愛撫は柔肌に稲妻の道筋を描いた。抽挿(ちゅうそう)は寄せ返す波のように内側を撫でた。彼女は何度も達した。景色は白く爆ぜ、天も地も分からなくなった。溶けている――ココは思った。  ……精液を吐き出し、脱力した老人の下で、ココは自身の躰の変化に気づいた。吐き気がない。密度の高い金属はどこにも感じられなかった。ココは大きく息を吸った。男女の体臭がなめらかに肺に満ちた。苦しみを伴わない尊さは、生臭く甘かった。  ココはクローゼットに吊るしていたスーツを老人にあげた。持ち主だった男は一時期ココの家に泊まり込むほど執着していたが、ある日突然行方知れずになった。優しく身なりも良かったが、何をして稼いでいるか分からない男だったので、少々うんざりしていたココは厄介払いができて清々したが、置いていった上物のスーツは何とはなしに捨てられないでいたのだった。今こそ役立たせるときだとココは思った。まるであつらえたように、サイズは老人にぴったりだった。  別れ際、ココは老人に貯えの一部を渡した。何をするにもいろいろと金が要るだろうからと言って。封の切られていない札束は当面の衣食住を確保できる額だ。老人は受け取り、必ず返しに来ると言った。 「それまでは、あなたに会わないでおこう。あなたとの再会を糧に、日々を生きていこう」  待っているから――ココは深いキスで老人を送り出した。遠ざかっていく背中を見つめながら、ココはかつてない満足感に包まれていた。      *  季節が廻り、再び冬が来た。  ある朝、まだ街が動き始める前。  往来を独り歩いているのは、あの老人だった。清潔な衣服に身を包み、彫りの深い(かお)には穏やかな笑みを浮かべている。身体に付いた引き締まった肉、伸ばした背筋には生への活力が感じられる。一年前まで道の端で死にかけていたと言われても、信じる者はいないだろう。  あの夢のような出来事があったあと、老人は必死になって職を探した。素性を知って忌避するところも多かったが、老人はあきらめなかった。とにかく業種を選ばず、いくつもの仕事を掛け持ちし、くたくたになるまで働いた。そうして一年、ようやく人並みの生活を送れるまでに回復したのだった。  いま、老人の外套のポケットには新品の札束が入っている。そして足取り軽く向かう先は、ココの家であった。彼は、あの日の約束を果たしに来たのだ。  宣言どおり、老人はココと一度も会っていない。彼女の家を意図的に遠ざけ、やむなく近くを通るときは顔を背けた。ほんの少しでも視界に捉えてしまえば、全てがふいになってしまうと思ったからだ。それも今日で終わりだ。ココ――かたちある天使の笑みを思い出して、老人の胸は高鳴った。往来に並ぶ街灯が、彼女への道標のように思えてくる……それは少々ロマンティック過ぎやしないかと苦笑して、雪を踏む足に力を込めた。  その足が止まる。    ひとつだけ切れかけた街灯。  息も絶え絶えに明滅するその足元に、黒いかたまりが落ちていた。  老人は引き寄せられるように近づいた。  かたまりは人間だった。  仰向けに倒れた女だった。  金の髪は雪に埋もれて光を失い、碧の瞳は空を見たまま凍っていた。  額には銃創が黒々と穿たれ、死んでいるのは明白だった。  老人は雪の上に膝を突いた。  手を伸ばし女の頬に触れる。  痛みに似た冷たさが指を刺した。  彼が何か呟くより早く、街灯が眠るように消えた。  Fin.
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