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俺は鞄から鍵を取り出し、目の前の細長いロッカーを開けた。
自分の洋服と予備のユニフォームが、狭苦しくハンガーに掛けられている。
(もっと広いロッカーにしてくれればいいのに……)
そんなことを心の中でぼやきながら、俺は着ているユニフォームの襟のボタンに指をかけた。
数え切れないほどのロッカーがひしめき合って並んでいる。
どの通路もロッカーとロッカーが向かい合わせになっており、どこも狭い。
真後ろのロッカーが開けば着替えはかなり苦労する。
俺はいつもその状況に苛つきを感じている。
しかし、俺のロッカーがあるD通路には、今は俺以外、誰もいない。
この通路だけでなく、どうやらロッカー室にいるのは俺だけのようだ。
心置きなくゆったりと着替えることができる。
広々と使える空間に、俺は安堵のため息を吐いた。
でも、なんとなく寂しいような気もして、それを紛らわすために咳払いをしてみたりもした。
シャツのボタンを全て外し、それを脱ごうとした時。
「兄さん!」
聞き慣れた男の子の高い声が、静かだったロッカー室に響き渡った。
俺は特に表情を変えることなく、声が聞こえてきた左の方に視線を向けた。
俺のいる通路の突き当たりから、蒼太がひょっこりと顔を出している。
「兄さん、かくれんぼしようよ」
俺と目があった蒼太は、跳ねるようにロッカーの影から現れた。後ろに手を組み、無邪気な笑顔を俺に向けている。
「疲れてるんだけど」
蒼太の顔から視線を逸らし、ため息混じりに俺は言った。
「ちょっとだけ!」
後ろに組んでいた両手を、顔の前でぴたりと合わせ、蒼太は必死で懇願してくる。
俺は自分のロッカーに書かれた255の数字をぼんやり眺めながら、今度は分かりやすくため息を吐いてやった。
「着替えてるから」
俺は淡々とそう言って、半分脱ぎかけているYシャツから左腕を出した。
「ばあ!」
蒼太は俺を驚かせるために、三つ隣にある222番のロッカーから飛び出してきた。
左開きの扉が、勢いよく隣のロッカーにぶつかった。
俺は特に驚きはせず、ちらりと蒼太に視線を向けただけで終わらせた。
そんな俺を見て、蒼太はつまらなさそうにロッカーの扉をひらひらと動かし、錆びついた蝶番の音を響かせた。
「ねえいいじゃん。ちょっとだけ」
眉をひそめ、駄々っ子のように、蒼太は再度俺にお願いをしてくる。
俺は何も言わず、もう一方の腕をYシャツの袖から引き出した。
大きなため息と同時に、蒼太は扉を引き戻し、222番のロッカーの中に隠れていった。
ロッカーの扉を力任せに閉じる音が、部屋中に響き渡った。
俺はYシャツを畳み、鞄の中に仕舞った。
その直後、背後でロッカーの開く音がする。
ちらりと振り返れば、蒼太が俺の真後ろのロッカーから顔を覗かせた。
「いいもん。一人でだってかくれんぼできるし」
拗ねたような声で、蒼太は俺に言った。
俺はそれに対して返事はせず、蒼太の顔に目も向けずにいた。
するとロッカーは大きな音を立てて閉められた。
また蒼太はその中に隠れてしまったようだった。
自分のロッカーに仕舞ってあるTシャツを手に取り、頭から被った。
「ねえ兄さん。今日の晩ご飯、兄さんの好きなビーフシチューだよ」
少し遠くの方でロッカーの開く音がしたと思ったら、すぐさま蒼太の声もそちらから耳に届いてきた。
俺は構わず着替えを続けた。
今度は俺の右斜め後ろのロッカーが開いた。
「僕もビーフシチューは二番目に好きだから、すごく楽しみ!」
ロッカーの中から身を乗り出し、蒼太は言った。
とても明るい嬉しそうな声だった。
喜びの声を上げる蒼太の表情は気になったので、俺はベルトを外しながら、蒼太のいる右斜め後ろのロッカーをチラリと見た。
だが目を向けてすぐ、その扉は閉められた。
俺はその時、小さな違和感を覚えた。
ロッカーの扉を掴んでいた指が、見慣れているはずのものには思えなかったのだ。
同じ列の少し遠くの方で、またロッカーが開いた。
俺は着替える手を止めて、そちらに目を向けた。
蒼太は開いた扉の影に体を隠したまま、顔だけを覗かせている。
「最近寒くなってきたね。あっという間に冬になっちゃいそう」
満面の笑顔を俺に向け、蒼太はまた素早くロッカーの中へと隠れていった。
閉められた扉の風圧で、何かがそのロッカーの中から飛び出し、通路の床へふわりと舞い降りた。
俺は思わず駆け足で近寄り、その落ちた何かを拾った。
それは一つの茶色い羽だった。
(誰かのコートから抜け出たのか? でも、まだそこまで寒くないし……)
俺は首を傾げた。
同じD通路。
俺の後方の向かいのロッカーが、また開かれた。
慌てて素早く振り返る。
「僕、秋って好きだな。赤い絨毯が見れるんだもん」
蒼太は足を踏み出し、半身をロッカーから出しているが、体のほとんどが開かれた扉のせいで見ることができない。
しかし、下から覗く蒼太の足は、棒のように細く、指が三本で、鋭いかぎ爪が付いているように見える。
まるで、鳥みたいに。
「黄色い絨毯も好き。ちょっと臭いけどね」
閉められたそのロッカーの向かい側。
今度は突き当たりのロッカーが開いた。
少し遠いが、はっきりと分かる。
蒼太の腕が、茶色い、ふわふわとしたものに覆われている。
それはまるで翼のよう。
「おい、蒼太」
俺が口を開くと同時に、蒼太はロッカーの中に体を仕舞い込み、また扉を閉めてしまった。
俺は耳を澄まし、周りを素早く見渡した。
一つ向こうの通路で、ロッカーの開く音がした。
俺はその通路へと走る。
「僕、ナナカマドの実も大好き。真っ赤で、とっても甘いんだ」
その声には、カチカチと何かが当たる音が入り混じっていた。
目を凝らしてよく見れば、蒼太の口元には細長い黄色いクチバシが付いていた。
真正面に開かれたロッカーの中にいる蒼太と目が合った。
真っ黒な瞳をしていた。
蒼太はクチバシを、啄ばむようにカチカチと鳴らした。
何かを言っているように見えるが、一切、声は聞こえない。
皺だらけの細い脚。
翼のような両腕。
鋭いクチバシ。
蒼太であることは間違いないのに、それは分かっているのに、それが蒼太であると思いたくない自分がいる。
俺が黙って見つめていると、蒼太は真っ黒な瞳をパチクリさせて、またロッカーの奥へと舞い戻っていった。
「おい! もうよせよ!」
勢いよく閉められたロッカーに向かって、俺は叫んだ。
俺は、次のロッカーが開くのを待った。
しかし、どんなに耳を澄まして待っていても、蝶番の耳障りな音が響くことはなかった。
だが、その代わりに、小さくも激しい羽音と、心を掻き乱すようなさえずりが、俺の耳に届いた。
俺は足音を殺しながら、その音を辿った。
「ここ、か?」
そう呟き、俺は勢いよく99番のロッカーを開いた。
そのロッカーの中では、小さなヒヨドリが、元気一杯に羽ばたいていた。
「蒼太?」
俺は、そのヒヨドリが蒼太であると一瞬で分かった。
だが、ヒヨドリはこちらに目もくれず、一目散にそのロッカーを飛び出していった。
「蒼太!」
俺は逃げていくヒヨドリに精一杯の声量で呼びかける。
ヒヨドリは止まることなく飛んでいき、開いていた四角い窓から、躊躇うことなく羽ばたいていってしまった。
俺の心は寂しさと嫉妬で満たされる。
祝福なんてできるわけがなかった。
(俺はこんなだから、いつまでも大人になれないんだ……)
一人残された俺は、喪失感に苛まれ、ただただ天を仰いだ。
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