はじまりはじまり。

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「サチ先生?大丈夫?」 「……嗚呼、うん。急すぎて、びっくりして一瞬飛んでた」 「ごめんね……」  こうして、大手出版社、構想社のデジタルコンテンツ(電子媒体)部 小説(ノベル)チームに所属する、今目の前で申し訳なさそうに項垂れている彼女と正式にタッグを組むことになったのが数年前。アプリで連載を開始すると、想像以上にスピードのある反響から、あれよあれよという間に書籍化にも繋がって。私の本名である丹羽(にわ) 紗智(さち)の名前からSNS時代は「s」、アプリ掲載時は「サチ」と名乗っていたけれど、書籍デビューの時にきちんと改めて苗字をつけた。  橋羽未(はしばみ) サチ。榛世 あすみの「榛」の字が持つ”はしばみ”という読み方を貰って付けたこの名前が、私の今のワーキングネームだ。(あすみちゃんは、随分後になってから私の名前の由来に気づいて泣いていた) 「分かった」 「え?」 「だから、あすみちゃんが暫く私の担当が出来ないってことは分かった」 「……え、分かったの?」 「うん、あすみちゃんが仕事し過ぎて倒れられたらそれこそ私だって困るし」 「サチ先生……」  今朝、突然あすみちゃんに編集部へ呼び出された時から違和感は抱いていたのだ。そして編集部近くの会議室に通されて、甘党な私のために態々たっぷりの砂糖とミルクを既に溶け込ませたコーヒーを運んできた彼女の険しい表情を見た時から、一層「これは、なんかあるな」と察していた。 「正直、ちょっとびっくりしました」 「何が?」 「いや、その、」 「あ。私がもっとゴネると思った?」 「う、うーん、そうだね……」 「私も大人になったんですよ」 「なるほどです」 「ちょっと寂しいなあ」なんて常に私を甘やかすように目尻をきゅっと下げる優しい編集者は、お人好しな分きっと抱えなくても良い仕事まで抱えているのだろう。 お互いいつもの打ち合わせ中のようにコーヒーを仰ぐ。ゆっくりと再びテーブルにカップを置いたのは私が先だった。 「だからね、決めました」 「……え、何を?」 「あすみちゃんと仕事できない間、私も仕事休むわ」 「え???この作家先生さま、やっぱり全然分かってなかった」 「……だって」 「だって?」 「あすみちゃんが担当じゃなくなるなんて、嫌に決まってんでしょお!!?」 「えええ、サチ先生大人になったんじゃなかったの!?」 「心はいつまでも少女じゃないと、恋愛小説なんか書けないんだよ!?」 「こんな瞬時に意見変わることある!?」 「も~~~ちゃんと後で了承はするから、今は文句言わせて!!」  急に我慢が切れたように怒り出した私に、当然呆気に取られていたあすみちゃんが「もう、なんなの」と可笑しそうに相好を崩す。先程までの罪悪感で滲んだ浮かない表情から一変して、心からちゃんと笑っている様子に、隠れてほっと肩を撫でおろして、私も笑顔を見せた。 「さすがサチ先生だね、安心した」 「褒めてないでしょ」 「そんなことないよ?」  彼女が敬語を使わないのは、私が出会った頃にそう頼みこんだからだ。「先生って呼ばれるのも嫌だ」と重ねて伝えたけれど、それは譲らない彼女との折衷案で今に至る。
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