アンタはきっと気付かない

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意識を失ったのはいつの事だっただろう? 確か何時ものように満員の通勤電車に乗り、会社に向かっていた所までは朧げに覚えている。 「そこから何も思い出せない…。」 倒れていたベッドから身を起こし、少し乱れてしまった髪を軽く手櫛で整えながら自身が置かれている状況を整理する。 俺がいるのは腐臭漂う薄暗い部屋。 時折、部屋の外から足音と尋常ならぬ呻き声が聞こえる。 窓はベニヤ板が打ち付けられて外の様子はおろか光すら入ってこない程、しっかりと閉じられている。明かりは時代遅れの白熱電球の照明が一つぶら下がっているだけ。 部屋は物が多く、俺が寝かされていたベッド以外のスペースは缶詰などの日持ちする食料品が所狭しと置かれている。 ー ここは何処だ? 正直、ここが誰の部屋なのか、はたまた倉庫なのかも分からない。そもそも何時この部屋に連れて来られたのかも分からない。分かるのは自分からこの部屋に来た訳ではないって事で意識を取り戻したのは一時間前。 「まさか誘拐?」 …とも思ったが、可愛い女の子でも金持ちでもない三十六のおっさんである俺を誘拐しても利益がない。 縛られている訳でもないし、窓は駄目だが扉は内側から簡単に開けられるタイプのもの。いつでもこの部屋から出れるのだ。 ただ…。 「ゔぅ。…ぁあ"ガッ。」 時折扉の外から聞こえる呻き声がこの部屋から出る事を躊躇わせる。中々、部屋を出る決心もベッドから立ち上がる決心もあの呻き声の所為で出来なかったのだ。 「はぁ。このままって訳にもいかないよな…。」 気は進まないが意を決して部屋を出ようとドアノブに手をかける。 ガチャリッと扉は簡単に開き、空いた隙間から先程より濃い腐臭が流れ込んできて顔を顰めてワイシャツの裾で鼻と口を覆う。 部屋の外はお化け屋敷を彷彿とさせるような廃れ具合で思わずゴクリと固唾を飲む。 出口を探して進むが、床や壁には所々に赤黒い汚れのようなものが見え、チカチカと点滅する蛍光ランプが恐怖を掻き立てる。 「ホラーは得意じゃないんだけどなぁ」 はははっ、と思わず苦笑いを零し、後退る。 腐臭が先程より濃くなった気がする。やはり、一度部屋に戻ろうかと思った時、生臭い風が耳にかかった。 「ゔぁ"ぁ…」 耳元であの呻き声が聞こえた。 苦笑いが引き攣り、ドッドッと心臓が激しく鼓動を刻む。 ゆっくりと振り向くと、チカチカと点滅する明かりの中、肉が剥がれ剥き出しになった口からダラダラと涎を垂らした男がそこに立っていた。 「ッツ!?」 驚愕し、腰を抜かすと床についた手が落ちていたていた鉄パイプを転がした。鉄パイプは勢いよく壁に当たり激しい音が廊下に響いた。 「あ”ぁあ”っ!!」 音に反応して目の前の男が更に歯を剥き出して襲いかかる。咄嗟に先程の鉄パイプを掴み、振り回した。男の頭に思いっきり当たったが男はフラつく事もなく、向かってくる。 生きている普通の人間ならば頭を鉄パイプで殴られたら大怪我をして昏倒する筈。確かに男は鉄パイプで殴られて皮膚が剥がれる大怪我を負ったがそれでも倒れる事はない。 ー ゾンビ!? そうやっと頭で理解して身体が逃げろと走り出す。 化け物相手に立ち向ったって常人が勝てる訳がない。俺は何処にでもいる普通のサラリーマンだ。ゾンビ映画の主役にはなれない。 見つけた部屋の中に駆け込み、鍵を閉めようとする。 手が震えて鍵が中々閉められない。数秒格闘してなんとか閉めると一気に力が抜けてズルズルと床にへたり込んだ。 助かったと思った。 一時的だが、鍵を掛けたからもうゾンビは襲ってこないと気を抜いた。 だが…。 「ゔぁぅッ。あ"ぁ」 「ぁ"ああ"…」 逃げ込んだ部屋はゾンビだらけだった。 ガタガタッと閉めた扉も激しく揺れる。 どうやら先程の男のゾンビが追いついてきたらしい。その揺らされる扉の音に反応して部屋のゾンビ達が顔をこちらに向けた。 「そんな…。なんでこんな事に」 本当に何が起きているのか分からない。 それなのに自身の身に何が起きたかも分からず死ぬなんて。 こちらに吸い寄せられるゾンビを前にただ呆然とへたり込んでいた。ゾンビ達に囲まれた俺に逃げる場所などもうなかった。 死にたくない。 だが目の前にある絶対の死に何も出来ずにただ情けなく恐怖する。伸びてきたゾンビの手に諦めて目を瞑った。 ザシュッ。 何かが切れる音がした。 顔に生暖かい液体がかかり、目を開けると俺に手を伸ばしていたゾンビの首から血が吹き出していた。 何が起きたのか理解できずにいるとピュッとまたゾンビの首から血が吹き出し、紅い飛沫が部屋に舞う。 チカチカと点滅する蛍光灯の光を受けてキラリと何かがゾンビ達の中で光る。よく見るとそれは手術用のメスで、そのメスは次々とゾンビ達の首を切り、部屋の中を真っ赤に染め上げていく。 「な…んだ?」 綺麗に弧を描き、ゾンビの首を切り裂きていくメスの動きに合わせて、白い白衣が赤い世界でヒラヒラと揺れる。 血が舞い振る部屋の中、突如現れた白衣の青年がメスを振るっていた。 その光景は恐ろしい光景の筈なのにゾンビの首を最も簡単に切り裂き、赤く染まる世界で踊るように白衣をはためかせ、メスを振るうその姿は美しくみえた。一瞬、状況を忘れて、その光景に見惚れていた。 青年は端正なその顔に一切感情を乗せる事なく、淡々とゾンビを狩っていく。 そして部屋の中はゾンビの血で染まり、血の飛び散った床で俺は立ち尽くしていた。ゾンビさえ忘れてただその青年を見ていた。 ゾンビを狩り終えると青年のメスは空を切り、スッと俺の首筋に当てられた。ギラリと青年の瞳が蛍光灯の光りを受けて妖しく光る。 俺にはその青年が死神のように見えた。 「オレは……死ぬのか?」 「死にたいのか?」 青年は俺の問いにそう返すと無表情で首を傾げた。俺はメスを首筋に当てられているのも忘れてふるふると首を横に振ると青年はメスを下げた。 「ついて来い」 そう一言だけ言うと青年は何も説明する事もなく、歩き始めた。
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