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二〇一〇年、春。
「日給一万三千円。気軽にできるお仕事です!」
その一行が、一人の男の人生を変える、全ての始まりだった。
「お~めでと~う!」
二人分の拍手の後、パーン! パーン! と、クラッカーが鳴る。
夕城辺は、両耳を両手でおさえ、ようよう耳鳴りがおさまると、のろのろ手を離し、頭や肩にかかったカラーテープを取り除け床に捨てて。それから、目の前に立つ二人を順繰りに見渡した。
グルグルビン底眼鏡にまぶしい頭の、課長だという男と、新卒二年目くらいだろう事務の女性。そして辺の三人しか、その場にはいない。
そこは半地下部屋。使っていない机や椅子やパソコンが積み上げられて、あまり広くはない室内を更に狭苦しくしている。窓はあるものの、半分までコンクリートで塞がれているので、昼間でも太陽の光は、地上階の半分しか入ってこない。その上、経費節減の波がこんな所まで訪れているのか、二本一組のはずの蛍光灯が一本ずつしか取り付けられていないため、非常に薄暗い。
そんな辛気臭い場所だからこそ、自身が――気質的にもアタマ的にも――輝こうとしているのか、課長は、自分の名前を葛城玉三郎と名乗った直後、満面の笑顔で、辺の両肩をバシバシと叩いてきた。
「合格、合格、大合格! キミのような逸材を待っていたよ~!」
合格。大学受験以来数ヶ月ぶりに聞く、縁起の良い言葉である。だが、さっきまでなら素直に喜んだだろう辺の心には、疑問の雲がたちこめていた。
一応都民だが、市民。二十三区内の大学で学びたくて、それを機に、何かとうるさい親元から離れたくて、一念発起、猛勉強し、都心大学の文学部に滑り込んだ。
が、都会は何かと物入りで、しかも、強引な勧誘に根負けしてとりあえず会員名簿に名を書いてみたテニスサークルは、テニスサークルという名の飲み会グループ。酒を飲む事も出来ないのに会費だけは先輩達と同額をしっかり取られ、親からもらった生活費は、あっという間に飛んでいった。
次の仕送りまで、あと二週間もある。親元を離れ独り立ちしたいと言い張って出てきた手前、お金がありません仕送りしてください、などとメールをする事は、敗北宣言に等しい。次に家に帰ったら、両親は、それ見た事か、通学範囲に住んでいるのに都会なんかに出るからだ、と、鬼の首を取ったように責め立てるだろうし、高二の妹の沖には、とことん馬鹿にされるだろう。
プライドを捨ててすごすご家に帰る恥と、ひもじさと切なさと貧乏臭さと二週間戦う気力を天秤にかけた時、辺の若さは、後者を取った。
が。
若い辺の身体はとても正直で、節食三日目の夜に、激しい空腹を訴えた。やはり、ダイエットをしている訳でもない健全な十八歳男子に、朝はコップ一杯の水、昼野菜ジュース、夜カップラーメンの生活は、栄養が足りなさすぎたようだ。
このままでは、『そんなんだから、兄ちゃんは背が伸びないのよ』と、沖におちょくられるネタを、また増やしてしまう。
ともかく、量のあるスナック菓子でも食べて誤魔化そうと、夜中にコンビニへ行き、何となく気を引かれた求人誌を、何となく手にとって、何となくページをめくった時、ひとつの記事が、辺の目にとまった。
それが、かの有名な大手製薬会社『麗鳥製薬』本社、開発十四課という所での、アルバイト募集広告だった。
日給一万三千円。即日払いも可能。
たちまち、辺は目の色を変えて食いついた。雑誌を買う金も惜しいので、レジに立つ店員の視線を痛いほど感じながらも、携帯で電話番号をメモし(よい子のみんなは、本や雑誌はちゃんと買おうね!)、翌朝一番で電話すると、丁寧な物腰のお姉さんが応対し、まずは履歴書を持って面接に来てください、と言われた。
とにもかくにも、この窮状から脱したい一心で、辺は一張羅のスーツを着て、地下鉄を乗り継ぎ、麗鳥製薬へ向かった。
詳しい仕事説明は面接時にします、と、よくよく考えれば、最初から怪しい事が、記事に書かれていたというのに。
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