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「鹿山さ、ここで降りて。」
柏木さんの声は少し震えていた。
「またですかー?」
僕は努めて明るく返す。
「虚しくなった。何がわかっても、向井は俺の所には戻って来ない。それが現実だ。」
僕はその言葉に鳥肌が立つ。向井さんを失った男の絶望。これは10年後の僕の姿か。それともこいつが予言する2年後か。
厄介なことに、僕はお人好しだ。向井さんはある程度で線引きをするが、僕は落ち込んでいる人間に弱い。
「柏木さん、そんなに落ち込まないで。お二人は記念に物とか、交換しなかったんですか?ほら、向井さんそれを今でも大事に持ってるかもしれないですよ。」
柏木さんはチラと腕時計を見る。
「ないな。」
僕はまた、鳥肌が立つ。一文字で書かれたブランドロゴは見覚えがあった。これ、読みはフランス語なんでしょう。男性物の時計もあるんですね、と話したのを覚えている。
向井さんがしている腕時計と同じブランドだ。それは今でも向井さんの腕にある。
いつから、いつまで、今も?いつも?
あの日も、あの時も、あの告白も、腕には時計がいた。いつだってあいつの片割れを側に置いていたのだろうか。
向井は秘密が多いから。
車から降りた僕はここ最近の時間外労働と、2時間の待ちぼうけと、以前も通った覚えのある道とを思い出して、また笑った。でも前のように面白いとは笑えなかった。
柏木さんが僕を車から降ろしたのは、安全に運転する自信がないからだ。涙で曇った目で、前もろくに見えなかったに違いない。
「気を付けてくださいよ。」
そう言って降りたけれど、車は僕が歩いて角を曲がっても発進しなかった。
ドアが閉まりきる前に小さく、すみませんでしたと聞こえたような気がした。そんなこと言う人じゃないから、僕の妄想が言わせたものかもしれないけれど。
3回も車から落とされて、呪いにかかったようだ。これは、王子様のキスが必要だねと向井さんを思い出して、また哀しく笑った。
秘密とは、なんだろうかとずっと考えていた。
柏木さんの知る向井さんと、僕の知る向井さんはだいぶ違う。それはどうしてなんだろうか、それこそ秘密によるものなのだろうかと。
僕は駅までの道を歩く。幸い今日は星乃高から2駅先の、僕が乗り換える駅に10分程で着く場所だった。そこから5駅、乗り換えて1駅。
柏木さんにマンションを知られたくなくて、本当の駅は教えなかった。知ったところでどうということもないのだろうが。まだ僕の秘密の場所にしておきたかった。
僕にも秘密があるなと思い立つ。真希ちゃんに言った言葉の一つ一つ。結婚出来たらいいねの言葉。もう消えてしまった言葉の数々。
向井さんにも、もちろんあるだろう。
なるほど、そうかと思い立つ。
向井さんが柏木さんに今も抱いているのは、多分、愛だ。親子、兄弟、恋人…動物にだって。大切に想うことで抱く、愛。もうこれは忘れることは無理だ。
僕が真希ちゃんに抱いていたのも、また愛だ。まだ愛に入ったばかりのような、いや、彼女が幸せになってほしいと思う、この気持ちはきっと愛だ。
向井さんが僕に抱いているのは、恋だ。僕も。まだこの先があるのを知っているけれど、それがまだわからないでいる。
駅の電光掲示板は、5分後に電車が来ることを知らせていた。なんだいい調子じゃないか。僕はその前に無駄にした2時間と少しをもうすっかり忘れていた。
ホームに到着した電車に乗り込む。ここか5駅、乗り換えて1駅。
「カヤケン、今帰り?」
向井さんが目の前に乗ってきて、ドアは閉まった。
向井さんが乗って来たことに僕は喜び、さっきまでの怒りや焦り、それに見出した真理まですっかり忘れて、隣に座る向井さんを見た。
白いワイシャツの第一ボタンは外されているけど、鎖骨は見えない。あれが見られるのは本当に貴重だ。
少し汗をかいている。僕を見つけて走って乗って来てくれたのだろうか。一緒に電車に乗るのは始めてだと気付く。口にすると、そうだね。いつも上りと下りで別れてたよねと、少し肩を寄せてくれた。
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