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これでしょう?と向井が部屋から持ってきた時計は、鹿山には確かに見覚えがあった。
今してるのは、これね。
二つを並べて見せる。
前のは全体的にブラックで文字盤に青いラインが入ったもの。今のもブラックだけれど、指し色はなにもない。
青、好きなんですか?いや、そうではないけど。これは買った時に一番いいと思ったから。とやり取りをする。
あちらのは文字盤にゴールドのラインが入ってましたね。鹿山が言うと、揃いになんてしないよと時計を眺める。
健人は、なにかお揃いで欲しい?と向井が聞くと。僕、身に着けるものって痒くなっちゃうから。時計も、指輪も苦手で、と頭をかく。
体質じゃしょうがないね。向井は言って、時計を持ち部屋に戻る。唯一、鍵の付いた机の引き出しに前の時計をしまう。その隣には、一枚のハンカチと、貯金通帳。
通帳には一通の手紙が入っている。
この通帳は私名義のものですが、この中のお金は同居する鹿山健人さんのものです。私は彼が好きでした。私になにかあった時はこれは彼に返してあげてください。
ご丁寧に、印鑑と、拇印まで押して。これ以外に考えられなかった。鹿山から受け取っている生活費と称した金額を自分の何もかもとは別にして蓄えておく方法を。
私は彼を愛していました。とはまだ書けない指のペンに従い、素直に好きだと書いた。
愛しているとは、いつか言えるだろうか。
柏木が8月のあの日、会社を休めなかった理由を今は知っている。青い車と渡したかった指輪。
鹿山は指輪を外した時、内側を見ただろうか。8月のあの日の日付と、ご丁寧に名前まで彫ってあって。
柏木、秘密にするのも考えものだよ。ただ、向井は自分の持つ秘密にも怯えていた。鹿山を好きな気持ちとは別に、いつまでも消えない柏木への名残も。
向井はまだ鹿山の言うところの真理、には辿り着けていない。
再来月のチケットの売り出しがそろそろだったと机のパソコンを開いていじっていると、ドアがコンコン、コンコンと叩かれる。
なに?いいよ入ってと、そちらも見ずに答えると。
そのまま部屋に籠っちゃうってないんじゃないですか?信じられない。なんでチケット取ってるの?と鹿山が嘆く。
カヤケンも行こうよ。今月は会えない時期に取ったやつだったから、全然一緒に行けなくて、ごめんねとパソコンを鹿山に見せる。
僕、そこは公演があるからと向井の肩に頭をのせる。そう、必ず行くから、チケットよろしくねと向井が耳の後ろに鼻を寄せる。
大好きだよ、健人。呟く向井に、あの、布団敷いていいですか?と鹿山が肩に腕を回す。
「僕も、大好きです。」
布団ていうのが色気がないよね。向井の手はマウスを操る。
ねえ、名前、呼んでよ。向井の目はパソコンの画面に移り、キーを叩く。
「向井さん?」
いや、下の。と慣れた様子でお目当てのチケットの日付を選び、座席を選択していく。
「嫌だ。言っちゃ悪いけど、あなたの名前は悪すぎる。」
いいだろ。俺は気にしないから。とチケット購入をクリックする。
「…眞樹さん…」
やっぱ…だめだね…向井は吹き出す笑いを止められない。
嫉妬しちゃうよ、自分の名前なのに。と急に真剣な声になる。
鹿山は向井の肩に手を回したまま、首に顔を埋める。
「そういえばさ、前に芝居は娯楽だから、どこを見てもいいけど、でも…って話、したじゃない?」
したねぇ、と向井はパソコンでチケットを取りながら鹿山の髪に鼻を埋める。
「なんて言いたかったの?」
んー。どこを見てもいいけど、舞台を観ててくれなくちゃ。後で話、してても面白くないだろって。
チケットを3枚、取り終わると向井はパソコンを落として画面を閉じた。
鎖骨くらい、いくらでも見せてあげるから。今度から舞台は、ちゃんと見て。
ワイシャツのボタンをプチプチとあと2つ外すと、ほらと襟首を開いて見せる。
鹿山は息を飲んで、畳まれた布団と、向井の鎖骨を交互に見たが、まずは鎖骨に手を伸ばした。
そこに手を這わしながら、首にキスをして。ごめんなさい…と謝る。
「なに、謝ってるの?」
「僕、向井さんを支えたいと思って、秘密を作って。それを向井さんに言えないのが、苦しい。」
「秘密?ほとんど、言っちゃってるじゃない。言わなくて、いいけど。」
「ごめんなさい…。」
「支えようと思ってくれて、ありがとう。」
ほら、この後、俺がなんて言うかわかるでしょう?と悲しそうな顔をする鹿山に向井が聞く。
「そういうの、いいから…。」
合格、と向井は言って。鹿山の腕を取った。
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