獣になる

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 母の身におかしなことが起こっていると気付いたのは、僕が小学六年生のときだった。  ある晩、僕が部屋で小説を読んでいると、裸にバスタオル姿の弟が駆け込んできた。 「お兄ちゃーん、お風呂、詰まった」  弟は僕より三つ下で、その晩は、さらに三つ下の妹と一緒に風呂に入っていたはずだった。見に行ってみると、洗い場がうっすらと湯で浸されている。排水口の蓋を開けて中を覗くと、ごわごわとした黒い塊が穴を塞いでいた。 「髪の毛が詰まってるみたいだな」  僕は手を突っ込んで、それをほじくり出した。途端に湯が流れ始める。手の上に残ったものを、弟と妹がしげしげと眺めて驚きの声を上げた。 「なにこれ。犬の毛みたい」  互いに絡み合ったそれは、一本が五センチほどの長さで、何かの繊維のように細く、人間の髪の毛のようには見えなかった。かつて飼っていた犬のケンタを思い出したが、彼は一年以上も前に事故で死んでしまって、それ以来うちでは何も飼っていなかった。僕たちは首をかしげた。 「あんたたち、何を騒いでるの」  背後から不機嫌そうな声がして振り向くと、そこに母が立っていた。とろんとした目の周りを赤く染めて、体からお酒の匂いを漂わせている。僕は少し緊張して言った。 「……これが、排水口に詰まってた」  それを見た母は、一瞬、戸惑った表情を見せたような気がした。しかし、すぐに興味もなさげに「捨てといて」とだけ言うと、自分の部屋へと戻っていった。  指先に絡み付きながら水を滴らせるその塊が、なんだか急に不吉なものに思えてきた。僕はふたりを風呂場に残し、台所のゴミ箱にそれを投げ捨ててると、念入りに手を洗った。  僕は部屋に戻って、また小説を読み始めた。  ——ふう……。これでオークどもは全滅させたか……。  ——勇者様! 大変! 血が出ています!  ——ん? こんなの、ただのかすり傷だよ。大丈夫。  ——ダメです! 私が回復して差し上げますから、じっとしていて下さい!  ——エ、エフィーリア……。胸が当たって……。  物語の世界に没頭するうち、僕の手に残った嫌悪感は消えていった。しかし、一週間も経たないうちに、リビングで酔い潰れた母の腕を同じものが覆っているのを、僕は目にすることになった。それから少しずつ、母はヒトではなくなっていった。  僕は地元の専門学校を卒業したあと、東京にある小さなデザイン会社に就職した。二十二歳になっていた。  夜の十時をまわったオフィスの中には、もうほとんど人は残っていない。僕は画面の中のキャンバスとにらめっこをしながら、ときおりそこに文字や図柄を貼り付けていく。四つ先輩の森さんが、帰りしなに僕に話しかけてきた。 「お前、まだ頑張ってくの?」 「はい。これ、明日の朝イチで矢島さんに見せることになってて……」 「そっか。あんまり頑張りすぎんなよ」 「はい」 「そういやお前、今日も怒られてただろ」 「……はい」 「矢島さんもあんなに怒鳴らなくたっていいのになあ。こっちまで聞こえてくるんだよ」 「……僕が悪いんで、しょうがないです」 「矢島さんも矢島さんだけど、お前も、もうちょっとうまくやれないの?」 「……そう……ですね」 「(はた)から見てても、なんて言うか、要領悪いなって思うぞ」 「……すみません」 「いや、別に、俺に謝るようなことじゃないけどさ」  森さんは僕の肩を軽く叩き、「じゃ、頑張ってな!」と言ってオフィスを出て行った。  それから二時間ほど経って仕事を終えた僕は、終電で自分のアパートへと向かった。途中の駅で、会社員ふうの男がふらふらと乗り込んできたかと思うと、僕の向かい側の座席に倒れ込んで、そのまま仰向けに寝転がった。たっぷりと飲んできた帰りなのか、顔を真っ赤にして、片手をだらしなく床に垂らし、口元をむにゃむにゃと動かしている。僕は舌打ちをして、自分のスマートフォンに集中した。画面の中では、水着のような鎧を着た少女が、僕の指先の動きに合わせてモンスターをなぎ倒していく。少女が剣を振るう度に、彼女の大きな胸がぷるんと揺れた。僕はようやく少し安らぐことができた。  翌朝、目が覚めた僕は、腕に違和感を覚えた。トレーナーシャツの袖をまくると、かつて見たあの動物の毛が、びっしりと腕に生えていた。  僕が中学生になったばかりのころは、母はまだ自分一人で買い物や料理ができていた。夕飯どきは、僕たち四人は一緒に食卓を囲んだ。 「ハア〜ッ。この喉ごし、他では味わえない! ビールはやっぱり——」  テレビの中では、若手俳優が缶ビールを片手に、とびきりの笑顔をふりまいている。僕は味噌汁を飲むふりをして母の顔を覗き見たが、彼女は無表情に画面を見つめていただけで、どんな気持ちでいるのかは分からなかった。  母はアルコール依存症だった。いつからそうだったのかは、よく覚えていない。少なくとも、妹が生まれるまでは、家の中に空き缶が転がっているようなことはなかったと思う。父は長期の海外出張が続いていて、ほとんど家に帰ることがなかった。かつては、パソコンの画面をみんなで覗き込みながら、父とビデオ通話をすることもあったが、次第にその頻度は減っていった。母がそうさせなくなったのか、僕たちきょうだいが望まなくなったのかは分からない。代わりに、母の部屋のドア越しに罵声が聞こえてくるようになった。  ——子育ても、犬の世話も、おじいちゃんとおばあちゃんの相手も、あんたは全部、私に押し付けて……。 「ねえ、これ変な味がする」  僕はハッと我に返った。妹が僕の方を向いて、野菜炒めの大皿を指で差している。僕は慌てて「そうかな」と言って、皿を持ち上げて匂いを嗅いだ。どこか酸っぱい匂いがした。  突然、母が僕の手から皿をひったくった。無言のまま立ち上がって台所へ行き、シンクへ向けて料理を捨てた。箸が乱暴に皿をなぞるカシャカシャという音があたりに響いた。母はそれが終わった後も、僕たちに背を向けたまま、なぜかその場に立ちすくんでいた。 「ねえ、お母さん、小さくなってない?」  弟がひそひそ声で僕に話しかけた。そのころ、僕たちはできるだけ母と同じ空間にいることを避けるようになっていたが、それでも、母の体の変化は見落とされるほど(かす)かなものではなかった。肩幅は狭く、脚は短くなり、さらには腰も曲がってきていた。獣のような毛は、いまや腕や脚ばかりか、(ほお)やアゴ、首にまで生えてきている。毎日のように剃るのが面倒になったのか、家にいる日はほとんどそのままにしていた。  何も答えないままでいる僕に、弟が続けた。 「お父さんに話してって……」 「わかってるよ」  僕は冷蔵庫の扉に目をやった。いくつかのメモ書きがマグネットで貼り付いている。その中に、「何かあったときだけ」と言われていた、父の電話番号があった。  僕は初めての有給休暇を取って、病院へ向かった。それが僕の身に起こってから、すでに二週間以上が経っていた。  診察をした医者は、いかにも気の毒そうな顔をして僕に告げた。 「これは、獣化症です」  とうに予想していたはずの言葉なのに、それを聞いた瞬間に心臓がどくんと飛び跳ねた。食道のあたりで酸っぱい味がして、耳の近くの血管が急に脈打ち始めた。 「獣化症についてお聞きになったことは?」  僕はカラカラになった口から言葉を絞り出した。 「……はい、母がそうでした」 「そうでしたか……。それならご存知かと思いますが、改めて説明しましょうか」  医者は『獣化症ってどんな病気?』と表紙に書かれたパンフレットを取り出し、それを僕の前に広げて説明を始めた。 「この病気は段階的に進行して、初期には……」  医者の声は、僕ではない別の誰かに向かって話しているように遠くに聞こえた。それに混じって、聞いたことのある声がどこからか響いてくる。  ——有休取るのはいいけど、やることはちゃんとやったんだろうな? 「進行の速度は個人差が大きく、早い場合は発症から三ヶ月、遅い場合は五年ほどで……」  ——お前、専門出てるんだよな? 一体、何やってたの?  その中に、さらに別の声が混ざり始める。  ——勇者様、こういうの、好きなんですか……?  ——さっき言っただろ! 人の話はちゃんと聞け!  ——もっと、触ってもいいのよ……。あなたの、好きなとこ……。   声たちは、ぐるぐる、ぐるぐると僕の頭の中を回る。 「過大なストレスを受けると、前頭葉の働きが弱まって、発症のきっかけになると……」  ——すみませんね、こいつ、ダメな奴で。ちゃんと教育しておきますから……。  ——ふええ……。服が破れちゃいますぅ……。  ——あんまり頑張りすぎんなよ。じゃ、頑張ってな!  ——先生……。私、先生とエッチなこと、したい……。  ——お前、仕事中にちょくちょくスマホ見てるけど、何やってんだ? 「……ますか?」 「えっ?」 「これまでに、何かの依存症だと診断されたり、自覚されたことはありますか?」 「依存症……」 「色々あるんですけどね。アルコール、タバコ、薬物、ギャンブル、買い物、インターネット、ゲーム、ポルノ……」 「……特に、無いと思います。どうしてですか」  医者は一瞬、面食らったようだった。 「先ほど説明したように、この病気の患者さんは、何らかの依存症を持っている割合が非常に高いんです。それは、依存症に伴うドーパミンの過剰分泌が、獣化症の進行を促すからだと言われています。つまり、欲求を引き起こすトリガーとなるような刺激を、できるだけ避けることが大切になってくるわけです……」  ひととおり説明を受けた僕は、処方箋をもらって会計を済まし、ふらふらと病院を出た。  中学校から帰る途中、僕はスーパーに寄って、弁当や菓子パンを買い込んだ。新しく雇われたらしき店員は、学生服の僕を不思議そうな顔で眺めた。入学前に母と一緒に買いに行ったその学生服も、最近は少し小さくなってきていた。  家に帰ると、弟が僕に話しかけた。 「お兄ちゃん、またビール注文しといて」 「もう無くなったのか」  冷蔵庫の中を見ると、あの憎たらしい銀色の缶はもう六本しか残っていなかった。僕は母のものだったパソコンを使って、オンラインショップで二十四本入りの缶ビールの箱を四つ注文した。  買ってきた弁当をテーブルに広げて、僕たちは夕食をとった。そこにはもう母の姿はない。箸を口に運びながら、弟が僕に尋ねた。 「お母さん、病院に連れてって、入院させられないの?」 「ネットで調べたけど、入院したって良くなるわけじゃないんだ」 「でも、いなくなるだけでもいいじゃん」 「そりゃそうだけど……受け入れてくれる病院なんて無いよ」  そのとき、ダイニングのドアがぎこちなく開いて、母が現れた。かつての母の面影は、もうどこにもない。毛むくじゃらの体には何も身に付けず、長い腕をほとんど床に付けるようにして、ゆっくりとテーブルに近づいた。前方へ突き出た口元から、巨大な犬歯が覗く。彼女は、ほとんど穴だけになった鼻をひくつかせながら、黒目ばかりの目で僕たちの弁当を物欲しそうに見つめた。  僕は弟に聞いた。 「お前、ご飯、持っていかなかったの?」 「持ってったよ。パン、部屋に置いて——」  弟が言い終わらないうちに、突如として母が妹の腕につかみかかった。妹は驚いて悲鳴をあげ、母を振り払おうとする。僕と弟は慌てて母を引き剥がしにかかった。イスが倒れ、妹の弁当が誰かの手に弾き飛ばされて床に落ちた。床に散らばったご飯や揚げ物を見るなり、母はそれに飛びついて必死で頬張り始めた。僕たちは呆然として、ただそれを見ているだけだった。一通り食べ終わると、母は冷蔵庫を開けて缶ビールを取り出して、嬉しそうにキイキイと奇声を上げながら、跳ねるようにダイニングを去っていった。妹はその場にしゃがみこんで、しくしくと泣き出した。弟は妹の肩に優しく手を回すと、僕の方を向いて声を荒げて言った。 「あいつ、ずっとこのままなの? このまま、うちに居続けるの?」 「……島があるって」 「島?」 「……獣化した人を連れてくための島」 「じゃあ早く連れてってよ!」 「お父さんの立ち会いがないとダメなんだ。だから、もう少し我慢しろよ」 「お父さん、いつ帰ってくるの?」 「まだ分からないよ。仕事の目処がついたらだって……」 「もっとちゃんと頼んでよ! こんなの、もう嫌だよ!」 「頼んでるよ! 俺だって我慢してるんだ!」  僕は自分の箸と弁当をひっつかむと、ふたりの顔を見ないようにして、早足でダイニングを出て自分の部屋へ向かった。  その夜、僕は夢を見た。僕は石造りの粗末な部屋の中にいた。古びたベッドの上で、金髪の若い女性が腰を下ろして、僕に向かって微笑みかけている。それは、僕が小説の挿絵で見た、そのままの光景だった。僕は彼女の隣に座った。白いレースのワンピースから、彼女の艶やかな肌色が覗く。僕は彼女の肩に手をかけ、そのまま両の肩紐を下ろした。そして……。  僕の獣化症が進むにつれて、電車通勤は大きなストレスになっていった。僕の身長はいまや小学生くらいになっていて、吊り革に捉まるのも一苦労だ。ただ立っているだけでも、腰や背中がぎしぎしと痛んだ。顔つきにも変化が現れたせいで、僕に気付いてハッと息を呑む人、物珍しげに見つめる人、スマートフォンを向ける人もいた。  診断結果を会社に告げると、周囲は目に見えて優しく接してくれるようになったが、しばらくしてそれも元通りになった。それどころか、風当たりは日増しに強くなっていく。  ある日、矢島さんが僕の席にやってきて、僕を(にら)み付けて言った。 「おまえ、きかくしょはやくだせよ!」  僕はその言葉を頭の中で繰り返して、ようやく意味を理解した。それから必死で頭の中で言葉を組み立てて、返事をする。 「う、ういません。わうれてまいた。あんとか、きょ、きょうじゅうにおわあせます」  思った通りに舌が動かず、あたりにツバが飛び散った。矢島さんは呆れと怒りの入り混じった顔で僕を見た。 「あのなあ。かいしゃはおまえにもおなじきゅうりょうはらってんだぞ? びょうきだからってゆるしてもらってたら、ほかのひとはどうおもうんだ? ふこうへいだとおもうだろ? え? おれのところにもくじょうがきてるんだよ。あいつとはいっしょにしごとしたくないって」  矢継ぎ早に繰り出される言葉たちは、僕の頭をすり抜けていった。今の僕に分かるのは、とにかく彼が怒っているということだけだ。何か言わなければと思っても、僕の頭はショートして、何の言葉も紡ぐことができない。しばらくの間、口をもごもごさせて何かの音を発していると、矢島さんは興味を失ったように「おまえ、もういいよ。きかくしょはほかのやつにやらせるから」と言って去っていった。  目の前から彼がいなくなったことに、ひとまず僕は安堵した。そして、パソコンの中から、途中書きになったままの企画書の電子ファイルをなんとか探し出して、それに取り掛かった。  僕の頭の中にあるのは、まるで幼児のスケッチブックだ。デタラメな絵柄が何の脈絡もなく浮かんでは消えていく。何の進展も無いまま、一時間が過ぎ、二時間が過ぎた。脂汗が(ひたい)から滲み出した。  いつの間にか、僕のデスクの上にはスマートフォンが置かれていた。画面には、アニメの女性キャラクターのイラストが映し出されている。彼女は恥ずかしそうな表情を浮かべながら、スカートの端を自ら持ち上げて、ピンク色の下着を僕に見せつけている。僕の右手が、ぶかぶかになったズボンのチャックのあたりに伸びた。  久しぶりに見た父の姿は、僕が覚えていたよりも小柄で、老けていた。父は保健所から来た人たちと話すと、ためらいなく書類にサインした。  母は父の姿を見ても何の反応も示さなかったが、心なしか、いつもより大人しくしているように見えた。ところが、家の前に停まったワゴン車のバックドアが開いて、中に置かれた金属製のケージが見えた途端、母はまるで自分の運命を察したかのように暴れ始めた。保健所の職員たちが三人がかりで母の体を押さえつけて、なんとか中に入れようとするが、なかなかうまくいかない。母は鋭い歯を剥き出しにして威嚇し、長い指でケージの端にしがみついて抵抗した。職員の一人が棒を使って母の手を突くと、母は鋭く悲鳴をあげて、つかんでいる手を離した。ケージの扉が閉められた後も母は暴れていたが、すぐに車のバックドアも閉められ、母の姿は見えなくなった。 「それでは、失礼します。ご協力ありがとうございました」  職員たちは座席に乗り込んで車を発進させた。  ——終わったんだ、やっと……。  僕は大きく息を吐き出して、空を見上げた。春先の暖かな日の、澄み渡った空だった。  保健所の車が見えなくなるより早く、僕は家の中へと戻っていった。弟と妹が泣きながら父に抱きつくのが視界に入ったが、もう僕にとっては気にならなかった。  午後六時の電車は、帰宅する人でいっぱいだ。僕はなんとか空席を見つけて座り込んだ。  ——おまえ、きょうはもうかえれ。あしたから、こっちがれんらくするまでこなくていいから。  僕は久々に早く帰れることに喜んでいた。疲れた体をシートに預けていると、睡魔が僕を襲った。  目を覚ますと、相変わらず電車の中は混雑していたが、窓の外はすっかり暗くなっていた。乗り過ごしてしまったのだろうか? スマートフォンを取り出して操作しようとしたが、思った位置にうまく指を運ぶことができず、ロックが解除できない。僕はいらだち、足元の床にスマートフォンを叩きつけた。あたりがどよめき、僕の周囲に空間ができた。外の様子を見ようと窓を振り返ると、そこにはヒトとも猿ともつかない、まるで進化の途上のような生き物が映っていた。僕はなんだか気分が悪くなった。  僕は次の駅で電車を降りた。ホームの看板を見ても、そこに何が書かれているのかが理解できない。わけも分からず、人の流れに乗って改札を出た。  駅前の街頭ビジョンが、あたりに光と音をまき散らしていた。画面の中では、何人もの少女たちが、フリルのついたミニスカートをはためかせて踊っている。僕の視線は釘付けになった。  頭の中に、僕とは別の何かが入り込んできた。いや……そいつは、ずっと前からそこに潜んでいた。やっと自分の出番が来たとでも言うように、そいつは歓喜の雄叫びをあげた。視界が隅の方から黒く染まり始め、周りの音が聞こえなくなっていく。まるで、そいつが僕の脳内でテリトリーを広げようとしているかのようだった。  ——やめろ、やめろ……。  猛烈な眠気と戦うかのように、僕は必死で自分の意識を保とうとした。そいつが少しだけ、どこか深い部分へと引っ込んだ。少女たちが脚を振り上げた。スカートがずり上がり、白いふとももがあらわになる。僕の中の獣はふたたび勢いを取り戻し、僕の意識はさらに遠ざかる……。  ——だめだ、逃げろ、ここから、離れろ……。  僕は腹の底から叫び声とも鳴き声ともつかない音を発して、やっとの思いで街頭ビジョンから顔を逸らすと、地面に手をついて四つ足で走り出した。どこに向かっているのか、自分でも分からない。すれ違う人たちが悲鳴をあげ、僕に道を譲った。  やがて、同じ服を着た何人もの人間が、僕を取り囲んだ。 「*****! ******……」  人間たちは何かの音を発しながら、僕を追い詰める。僕は必死に暴れて抵抗したが、最後には冷たい(おり)の中に閉じ込められ、そのまま車に載せられた。  車に揺られながら、僕は最後に残った意識で考えていた。  ——まだそこにいるのなら……もしまた会えるのなら、謝りたい。ごめん、お母さん……。  しばらくして、僕が入った檻は車から船へと移され、ある島で下ろされた。人間が檻の扉を開けると、目の前には森が広がっていた。僕は住処(すみか)と食べ物を求めて森の中へと駆けていった。
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