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「…………」
おれは何も言えなくなって、手にしていた書類に目を落とす。
進学、就職。
ふたつの選択肢のうち、姉さんが丸をつけているのは、就職だった。
「これ……なんで、就職なの?」
たどたどしく疑問を口にするおれに、姉さんが小首をかしげる。
おれは姉さんの目をじっと見つめて、問いかけた。
「……おれに、気をつかってるから?」
姉さんはおれを見つめながら、ぱちりと瞬きをした。
胸の奥がぎゅうっと痛くなるのを感じながら、話を続ける。
「うちの家計のこと、よく知らないけどさ。……父さんと母さんがいないんだから、余裕があるわけじゃないんだろう? でもおれは、まだ小学生だから……」
どうしたって、大人に支えてもらうしかない。
だから姉さんには、早く大人になってもらうしかない……。
おれの言いたいことを理解したのだろう。姉さんはふわんと目元を和らげ、こっちにおいでと手招きをする。
近づくと、髪を撫でられた。
泣きそうなくらい凍えていた心に、姉さんの細い指先が、じいんとしみる。
「たしかに、その気持ちもゼロじゃない」
姉さんが、ぽつんと言った。
「学びたいことが見つからないのなら、しずのためにも就職をしようって、思ったこともあるよ」
「…………」
「でも、しずのせいで私の未来が犠牲になるなんて、ありえない。……絶対に。むしろ私は、しずのおかげで今日まで頑張ってこられたんだよ」
……だから、そんな悲しいこと、思わないでいいんだよ。
おれを見つめる優しい目が、そう言っている。
「姉さん……」
苦しい。
なんでこんな人が、自分を”ダメだねぇ”なんて言ってしまうんだろう。
――”この先、ひとりになる”なんて、思ってしまうんだろう……。
「…………っ」
涙がぽろ、ぽろと落ちていく。
姉さんはふにゃっと眉を下げながら笑い、おれの目元をぬぐってくれた。ほっそりとした指先が、くすぐったい。
「しずは、優しい子だねぇ」
あたたかな声で言われるので、必死で首を振る。
違う。優しいのは、おれじゃない。
「おれは、姉さんに”ひとり”になってほしくないよ……」
だれかが、傍にいてほしい。
姉さんが嬉しいときも、悲しいときも、隣にいてくれる人。
ああ……その人が、すぐ頭に浮かんでくる。
姉さんが一番、求めているのは……。
「……草一郎、は?」
その名前を出すと、姉さんが瞳を揺らす。
「草一郎には、今の姉さんの気持ち……伝えたの?」
おれが尋ねると、姉さんは少しだけ黙ったのち、首を振った。
「じゃあ……っ」
思わず身を乗り出す。
姉さんに伝えたくて……届いてほしくって、おれは一生懸命、言葉をつむいだ。
「姉さんには、もっとわがままになってほしいよ。自分の気持ちを我慢なんて、してほしくない。……姉さんは、草一郎のことが好きなんじゃないの? そばにいてほしいって、……本当はずっと、思ってるんじゃないのか?」
ぴくんと肩を跳ねた姉さん。その瞳が、静かにうるみはじめる。
布団の上に置かれた手のひらには、きゅっと力がこもっていた。
……それが、何よりの答えだと思った。
「その気持ちは、言葉にして伝えないとダメだ。姉さんがなんで、草一郎に言えずにいるのかわからないけど……っ、……こんなこと言うのも、お節介かもしれないけど……っ!」
でも、言わずにはいられない。
だって姉さんは、いつまでも草一郎にわがままを言えないだろうから。
「それに……――星は、見えなくならないよ。いつだって、姉さんのそばにいてくれるよ。……姉さんはいつだって優しくて、前向きで、頑張りやなんだから……っ」
”星はいつだって、空にあるんだもの”。
……劇のなかで、母さんはたしかに、そう言っていた。
たとえ悲しいことがあって、一度は見えなくなったって。
ずっと、姉さんの心にあり続けるはずだ。
消えないよ。
姉さんが抱きしめてきた幸せは、ずっとそばにあるんだよ。
離ればなれになったって、みんな、一緒だよ。
「……っ」
ふいに言葉が出なくなった。
代わりに、姉さんの手をとって、ぎゅうっとにぎった。姉さんはおれの手をにぎり返して、ぽろぽろと泣きはじめた。
願いを、かける。
姉さんの心のなかにあるたくさんの星が、いつまでも輝き続けるように。
――ずっと、そばにありますように……。
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