第29話:消えないよ

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「…………」  おれは何も言えなくなって、手にしていた書類に目を落とす。  進学、就職。  ふたつの選択肢のうち、姉さんが丸をつけているのは、就職だった。 「これ……なんで、就職なの?」  たどたどしく疑問を口にするおれに、姉さんが小首をかしげる。  おれは姉さんの目をじっと見つめて、問いかけた。   「……おれに、気をつかってるから?」  姉さんはおれを見つめながら、ぱちりと瞬きをした。  胸の奥がぎゅうっと痛くなるのを感じながら、話を続ける。 「うちの家計のこと、よく知らないけどさ。……父さんと母さんがいないんだから、余裕があるわけじゃないんだろう? でもおれは、まだ小学生だから……」  どうしたって、大人に支えてもらうしかない。  だから姉さんには、早く大人になってもらうしかない……。  おれの言いたいことを理解したのだろう。姉さんはふわんと目元を和らげ、こっちにおいでと手招きをする。  近づくと、髪を撫でられた。  泣きそうなくらい凍えていた心に、姉さんの細い指先が、じいんとしみる。 「たしかに、その気持ちもゼロじゃない」  姉さんが、ぽつんと言った。 「学びたいことが見つからないのなら、しずのためにも就職をしようって、思ったこともあるよ」 「…………」 「でも、しずのせいで私の未来が犠牲になるなんて、ありえない。……絶対に。むしろ私は、しずのおかげで今日まで頑張ってこられたんだよ」  ……だから、そんな悲しいこと、思わないでいいんだよ。  おれを見つめる優しい目が、そう言っている。 「姉さん……」  苦しい。  なんでこんな人が、自分を”ダメだねぇ”なんて言ってしまうんだろう。  ――”この先、ひとりになる”なんて、思ってしまうんだろう……。 「…………っ」  涙がぽろ、ぽろと落ちていく。  姉さんはふにゃっと眉を下げながら笑い、おれの目元をぬぐってくれた。ほっそりとした指先が、くすぐったい。 「しずは、優しい子だねぇ」  あたたかな声で言われるので、必死で首を振る。  違う。優しいのは、おれじゃない。 「おれは、姉さんに”ひとり”になってほしくないよ……」  だれかが、傍にいてほしい。  姉さんが嬉しいときも、悲しいときも、隣にいてくれる人。  ああ……その人が、すぐ頭に浮かんでくる。  姉さんが一番、求めているのは……。 「……草一郎、は?」  その名前を出すと、姉さんが瞳を揺らす。 「草一郎には、今の姉さんの気持ち……伝えたの?」  おれが尋ねると、姉さんは少しだけ黙ったのち、首を振った。 「じゃあ……っ」  思わず身を乗り出す。  姉さんに伝えたくて……届いてほしくって、おれは一生懸命、言葉をつむいだ。 「姉さんには、もっとわがままになってほしいよ。自分の気持ちを我慢なんて、してほしくない。……姉さんは、草一郎のことが好きなんじゃないの? そばにいてほしいって、……本当はずっと、思ってるんじゃないのか?」  ぴくんと肩を跳ねた姉さん。その瞳が、静かにうるみはじめる。  布団の上に置かれた手のひらには、きゅっと力がこもっていた。  ……それが、何よりの答えだと思った。 「その気持ちは、言葉にして伝えないとダメだ。姉さんがなんで、草一郎に言えずにいるのかわからないけど……っ、……こんなこと言うのも、お節介かもしれないけど……っ!」  でも、言わずにはいられない。  だって姉さんは、いつまでも草一郎にわがままを言えないだろうから。 「それに……――星は、見えなくならないよ。いつだって、姉さんのそばにいてくれるよ。……姉さんはいつだって優しくて、前向きで、頑張りやなんだから……っ」  ”星はいつだって、空にあるんだもの”。  ……劇のなかで、母さんはたしかに、そう言っていた。  たとえ悲しいことがあって、一度は見えなくなったって。  ずっと、姉さんの心にあり続けるはずだ。  消えないよ。  姉さんが抱きしめてきた幸せは、ずっとそばにあるんだよ。  離ればなれになったって、みんな、一緒だよ。 「……っ」  ふいに言葉が出なくなった。  代わりに、姉さんの手をとって、ぎゅうっとにぎった。姉さんはおれの手をにぎり返して、ぽろぽろと泣きはじめた。  願いを、かける。  姉さんの心のなかにあるたくさんの星が、いつまでも輝き続けるように。  ――ずっと、そばにありますように……。
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