第30話:ふたりだけの時間

2/3
前へ
/83ページ
次へ
 姉さんが食卓の自分の席に座る。おれはそれを尻目に、炊飯器を操作した。  朝の六時半に炊けるよう、タイマーを押す。  そうしながら、ふと、姉さんのご飯が恋しくなった。  無理はしてほしくないけれど、あの素朴なおいしい料理を口にしたいのも事実だ。  みんなもきっと、同じ気持ちでいるんだろうな。  そう思ったところで、ぱあっと、何かが光った。  明かりをつけていたのは台所だけだから、食卓よりも向こうは、暗闇に包まれている。  家の中と同じくらい真っ暗な窓の外を、オレンジ色の光が通りすぎたのだ。  ……車?  この辺りに住んでいるのはお年寄りが多い。  ただでさえ車通りは少ないんだけど、夜になるとよりいっそう、静かになる。  ……はっとする。  もしかして、草一郎が帰ってきたのか?  姉さんを見ると、目を大きく開いて、窓の外を見つめている。  そしてゆっくりと立ち上がり、胸元でこぶしをきゅっとにぎりしめた。  草一郎は明日、あいさつに来ると言っていた。今日は遅い時間になるからと、遠慮したようだった。  だから、今夜会わないといけないなんて、理由はない。  でも、会えるのなら。 「しず……。私、ちょっと行ってくる」  姉さんはそう言うと、階段の方へ駆けだしていった。  ぱたぱたと階段を上がっていく音を聴きながら、おれはこっそり、エールを送る。  頑張れ。  ……頑張れ、姉さん。  少ししてから、階段を下りてきた。……途中でつまづくような音がしたので、あわてて廊下からのぞきこむ。  シンプルなワンピースの上に厚手のカーディガンを羽織っている姉さん。階段の手すりをつかんで、転倒をまぬがれたらしい。ちらっとおれを見てはにかんでから、玄関へ駆けていく。  そして、引き戸を開くと……。 「わ、……っ!?」  目の前に、草一郎が立っていた。  びっくりして声を上げた姉さんが後ずさる。草一郎も、驚いたように目を丸くしていた。 「和紗……。それに、しずも」  廊下に立っているおれにも気づいたようで、草一郎は目を丸くしておれ達ふたりを見比べてから、くしゃっと笑う。 「夜も遅いから、明日にしようと思ったんだけど。……やっぱり、会いたくなってさ」 「うん……お帰り、草一郎」  一ヶ月も顔を見ていないと、こんなにも懐かしい気持ちになるんだな。  じわじわとこみ上げてくる、温かい気持ち。草一郎も同じように感じてくれているのだろう。  いつもの穏やかな笑みをおれに向けて、 「ああ、ただいま」  と言ってくれた。  姉さんは黙って、草一郎を見上げていた。  その視線に気づくと、草一郎も姉さんに向き直る。  自分よりも少し高い位置にある、青年の顔。  それを見上げる姉さんの表情は、おれからだと見えないけれど。 「おかえり、なさい」  ……優しい、声だった。  それに、とても甘い。  きっとこんな声は、他の誰にだってかけることはないんだろうと、思えるような。  その声を聴いて呆然としている草一郎に、姉さんは、こう言った。 「……いっぱい、がんばりましたね」  それは、いたわりの言葉だった。  耳にしたとたん、草一郎は瞳を揺らした。しばらく姉さんを見つめてから、その手が動く。  大きな手のひらが、姉さんのほおに、ゆっくりと向かっていった。  おれはそっと、物音を立てないように階段をのぼっていく。  ここからは、ふたりだけの時間だ。  ……そう、思ったから。
/83ページ

最初のコメントを投稿しよう!

4人が本棚に入れています
本棚に追加