もう少しだけ早く

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「……」  俺は、自分の透き通った腕を眺めた。明らかにこの世のものではない、俺の体。  珠美の言っていることは正しい。俺は、珠美の目の前で死んだ。  あの日、俺はこの高台で星空を見ようと珠美を誘ったのだ。待ち合わせ場所は、ここから少しだけ離れた工事現場の近くだった。  待ち合わせ場所で待っている俺。向こうからやってくる珠美。珠美を見つけた俺は、彼女に向かって手を挙げた。  その瞬間、近くの工事現場の大きい柱が俺の方に倒れ込んできた。  あの時の衝撃を何て表現すればいいのか分からない。叩かれたとか殴られたとか、そんな単純な痛みではなかった。そんな強烈な衝撃を頭に感じた直後、俺は一瞬にして意識を失い、気がついたらぼんやりした世界にいた。そして、そこが死後の世界だと気づくのに、そう時間はかからなかった。  だから……もう、誰にも会えないと思っていた。まさか、珠美が俺の遺品の石を使って俺を幽霊としてこの世に蘇らせてくれるなんて、思ってもいなかった。そもそもこの石を本物だと思っていなかった、というのもあるが。 「圭吾の友達に聞いたのよ。圭吾のポケットから見つかったその石の効果、そして使い方をね」  珠美は俺の足元の石を指差した。彼女は無理やり自分を落ち着かせようと必死になっているようだった。鼻呼吸をしようとしているようだが、口から動悸が漏れている。 「死んでしまった人を幽霊として呼び戻せる時間は数分らしいし、しかも絶対偽物だからって言われた。けど、私……どんな可能性にもかけたかったの。もう一度だけ圭吾に会って、どうしても謝りたかった」  珠美は崩れ落ちるようにしゃがみ込んだ。白いワンピースが地面に思いきりついているが、お構いなしといった感じだ。 「だから、本当にこの石が圭吾を連れてきてくれて、私嬉しいの。何度だって言うわ。本当に、本当にごめんなさい。間に合わなくて、時間に遅れて、ごめん……」  彼女は顔を覆う。聡明で、真面目過ぎるがゆえに、ずっとそのことで悩んで、苦しんでいたのだろう。苦しませているのは、悪いのは、俺だ。俺のせいで、珠美は……つらい思いをしている。  珠美は悪くない。俺が恨んでいるのは、俺自身と、せいぜい工事現場の責任者くらい。それなのに、珠美は自分を責め続けている。 「私が、もう少しだけ、もう少しだけ早く……」 「違うってば」  俺は優しく言った。鬱陶しく思われても構わない。俺だって何度でも言う。珠美に分かってもらうまで、何度でも。 「俺は結局、死ぬ運命だったんだよ。それに、もう少しだけ早く珠美が待ち合わせ場所に来ていたら、もしかしたら珠美も事故に巻き込まれていたかもしれない」 「……」 「珠美がもう少しだけ早く、来なくてよかったんだよ。珠美が死ななくてよかった」  そのとき、すうっと自分の中から蒸気のようなものが抜けていくように感じた。元から透明だった自分の体が、より薄くなっていく。ああ、そろそろ時間なのかな、と思った。俺がこの世にいられるタイムリミットが、もう迫ってきている。  珠美がハッとした顔で「圭吾っ」と俺に手を伸ばした。当然俺に触ることなどできず、珠美の手は空中を掴むようにふわりと動く。その手はそのまま地面についた。  俺は、体が次第に空中へ浮かび上がっていくのを感じた。細かく震えている珠美を上空から眺めながら、何で珠美はこんな服装で来たんだろう、と思いめぐらす。  すぐに思い当たった。いつだったか、珠美を含めた友人何人かで好きな俳優を挙げていたときがあった。そのとき俺は、近くにあった雑誌のあるページを指差しながら、『この女優の、浜辺に裸足で立つ白いワンピース姿とかめっちゃ好き』と言ったのだ。  すると珠美はそのページを食い入るように見た。俺はそんな珠美を見ながら、燦々と輝く太陽の下、白いワンピースを着て裸足で浜辺を駆け回る彼女を一瞬にして想起した。  そんな、そんな何気ない日があった。  馬鹿だなぁ、と思う。自然と微笑みが浮かぶ。今は夜で、しかもここは浜辺ですらない。でも、俺が喜ぶと思って着てきてくれたんだろうな。ちょっと天然で、だけど泣きたくなるくらい健気だ。  こんないい人には、俺のことなんか忘れて、幸せに生きていってほしい。  すると珠美は俺のいたところ辺りに手を伸ばすと、例の小石を拾い上げた。そしてぎゅっと胸の前で握りしめる。彼女の顔からはとめどなく雫が零れ落ちていく。 「圭吾……ごめんね。そして、ありがとう。一生大好き」  指の隙間から見える石の深緑色が、美しく輝いている。辺りは暗いはずなのに。眩しくて自分の瞼が震える。 「珠美……幸せに生きろよ」  俺は、珠美を見下ろしながらそう言った。絞り出すような掠れた声。でも、偽りのない気持ち。  珠美の姿がだんだん遠くなっていく。それに伴うように、視界が次第に霞んでいった。 〈完〉
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