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一章「叶うはずのない願いが、叶う気がするから」
雪の舞う、冷えた空気を深く吸い、吐き出す息とともに青年は言う。
「きれいになったな、シュルヴィ」
「……あなたは、ずいぶんとご立派になったようね」
感慨深げな青年に対し、シュルヴィの態度は冷めていた。青年はその反応を察するよりも、シュルヴィの頭からつま先までを何度も見ることに忙しい。
「本当、きれいになったよ。……久しぶり」
「ええ、久しぶり。本当に、本当に久しぶり。勝手に家を出て、三年間まったく連絡を寄越さず、いきなり帰ってきたと思ったら、まるで金貨をぶらさげてるような恰好で帰ってきて」
「えっ。この服、もしかして似合ってない?」
慌てて、青年カイは自身の姿を確認した。シュルヴィはその様子に表情を険しくする。じゅうぶん似合っているから、なおさら腹が立つのだ。
雪原地方に適したカイの厚手の外套は、貴族であるシュルヴィの外套よりも値が張りそうだ。もっとも、シュルヴィの父であるリーンノール伯爵は、しがない辺鄙な土地の地方貴族で、領民も少なく、貴族にしては質素な暮らしをしているためもある。
「似合ってないとは言っていないわ。ただ、まるですっかり知らない人みたいというだけ。じゃあ、わたしは用事があるからこれで。さようなら」
シュルヴィはカイの横を通り過ぎ、街路を進んだ。雪が深い。
村の貸本屋に行こうとしたら、こぢんまりとした中央広場に村の娘たちが集まっていた。凍結で息を止めた噴水の前で、何をしているのだろうと思えば、娘たちの中心には碧い飛竜が一頭いた。そして、そばには竜の飼い主と思われる赤みがかった金髪の青年の姿もある。その派手な髪色の青年が、シュルヴィの義理の家族でもあるカイだった。
シュルヴィは目を瞠り思わず足を止めた。それが誤りだった。一瞥するだけで通り過ぎてしまえば、外見に反し異性へは内気で、娘たちへの対応に困るカイの、救いを探す目に留まることもなかった。
歩き出したシュルヴィの後ろをカイがついてくる。飛竜を置き去りにしていいのかとちらりと広場を窺ったが、飛竜は大人しく待っているようだった。娘たちはつまらなそうに散っていく。
「黙って家出たのは、悪かったと思ってるよ。怒るのも、無理ないって」
「怒る? まさか」
挑発たっぷりに、あざ笑うように返してやった。
「どうしてわたしが、あなたが急に勝手にいなくなったからといって、わざわざ怒らなきゃいけないの? わたしは、あなたがどこで何をしようがぜんぜん気にしないし、心配もしない。考えてみれば、あなたと一緒に暮らしていたのはたった三年。いなくなっていた期間もちょうど三年。これって、足して引けば他人よね。どうぞご自由に生きてください」
三年の時を重ねた後、いなかった期間を減算すれば無に返るという理屈だ。
「足して引けば、って」
カイが気の抜けた顔になる。時間は加算しかないので、めちゃくちゃな理屈だ。
「どう考えても、怒ってるだろ。悪かったってほんと。ごめん。シュルヴィ」
いまさら現れて、謝られて、許すわけがない。そう言い返そうとする口を、ぐっと閉じる。怒れば怒るほど、心配していたことや寂しかったことを認めることになる。
新たに積もりゆく雪を、編み上げ靴で踏みしめる。勝手についてくるカイが、商店街の軒並みを眺めながら話しかけてくる。
「しばらくいない間に、リーンノールも変わったなぁ。新しい建物が増えた」
リーンノール村があるのは、帝都から遠く離れた大陸北端だ。一年の半分は雪に覆われている。村の主な店は中央の一ヶ所に集まっている。さらに、この三年で、店の数は急増した。
「そうね。雑貨店も食事処も、酒場も増えたわ。宿屋だって、一軒しかなかったのに、いまじゃ三軒あるもの」
観光名所もない小さな村だ。訪れる人もいないので、宿屋など一軒でもじゅうぶん過ぎるくらいだ。
「最近は、帝都の若い子たちに話題の甘味処もできたんだから」
自慢そうに言ったものの、心は空虚になった。小さく吐息し、呟く。
「村に、人が増えたわけでもないのにね」
カイの言葉が返ってくる前に、折良く目的の貸本屋に到着した。シュルヴィは肩に積もった雪を軽く払い、扉を開ける。暖炉が焚かれた店内の暖かさに、まずひと息ついた。同時に本の臭いが鼻孔へ入る。
来訪を告げる扉上部の小さな鐘の音に、奥の受付台にいた店主が顔を上げた。シュルヴィは店主へ、カイに対するものとは正反対の柔らかな笑みを向けた。
「こんにちは。時間、まだ大丈夫かしら」
「ああ、シュルヴィお嬢さま。大丈夫ですよ」
眼鏡をかけた老齢の店主だ。シュルヴィが幼い頃から通っている。当時はあった髪の毛は、いまは頂きが消えてしまっている。
「新しい本、入りましたよ。西方の町から取り寄せたものです」
「わあっ! 本当?」
「いつもの場所に、置いてありますよ」
店内に無理やり並べた、狭い間隔の本棚の間に入り込む。向かった本棚には、竜の関連書が並べられていた。百冊はある。遠方から取り寄せたものもあり、けれどシュルヴィが読んだことがない本は、新しく入荷された一冊だけだ。
手に取り、中を開く。絵や文章を試し読んでいる間、会話が聞こえた。
「ん? お前……もしかして、カイか!」
「久しぶり、ティモじい」
店主ティモが、目を丸くする。
「帰ってきたのか!」
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